太田述正コラム#15198(2025.9.18)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その24)>(2025.12.13公開)

 「オゴデイの治世は初代チンギスにつづき、遠征につぐ遠征であった。
 まず1230年、金国の覆滅をめざして華北へ侵攻し、1232年に汴<(べん)>京<(開封府)>南郊で金軍を打ち破る。<(注58)>

 (注58)「1229年・・・に新たに即位したオゴデイは、カリスマたるチンギス・カンの死後もモンゴル帝国は健在であることを示すため、即位後最初の大事業として金朝の完全征服を掲げた。一方、金朝は弱体化していたとはいえ、領地が減少したことによりかえって強固な防衛網を黄河南岸に築きこれを迎え撃たんとした。
 1232年(天興元年/壬辰)春、全軍を3軍に分けたモンゴル軍は、オゴデイ自ら率いる中央軍が黄河北岸で金軍主力を引き付けている間に、右翼軍を率いるトルイが南宋領を経由して南方から開封に迫った。慌てた金朝は主力軍を南方に向かわせたが、三峰山における決戦で完敗を喫した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%B0%81%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6
 「三峰山の戦い<は、>・・・鈞州三峰山(現在の河南省許昌市禹州市)で行われた金朝とモンゴル帝国との戦闘。騎兵2万・歩兵13万、計15万の金朝軍はトルイ率いる約4万のモンゴル軍に大敗、モンゴル帝国の大勝に終わった。・・・
 敗軍の将となった完顔陳和尚は自らモンゴルの陣営に赴いて処刑された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B0%E5%B1%B1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 その翌々年に金の最期の皇帝哀宗守緒<(注59)>(在位1224~34)が蔡州(さいしゅう)<(注60)>(河南省汝南)で自害し、ついに金は滅亡し、モンゴルが中国本土の直接支配を開始する。・・・」(187)

 (注59)1198~1234年。「この時代、かつての金領の北部はモンゴル帝国に奪われ、都もモンゴル軍を避け開封府に遷されていた。金は同じくモンゴルの圧迫を受けている西夏との同盟に活路を見出そうとするが、正大4年(1227年)に西夏が滅亡すると、金は再びモンゴル軍の攻撃目標となった。その頃、獄に繋がれていた完顔陳和尚を惜しんだ哀宗は陳和尚を釈放させ、軍務に復職させた。完顔陳和尚の活躍で一時はモンゴル軍を撃破したが、正大8年(1231年)に金軍の拠点であった河中府が陥落、天興元年(1232年)には都城である開封府がモンゴル軍によって包囲されるに至った(開封攻囲戦)。
 1232年三峰山の戦いで完顔陳和尚が戦死、モンゴル帝国が大勝し、金の衰退を決定づけた。金側は何度かモンゴル軍に対し和議を申し出たが、弟のトルイを金との戦闘中に失ったモンゴル帝国のオゴデイ・カアンは哀宗を弟の仇敵として、一切の交渉を拒否した。追い詰められた哀宗は天興2年(1233年)に開封府を脱出し、帰徳府・亳州・蔡州へと逃亡するものの、モンゴル軍による追撃は続き、天興3年(1234年)に北のモンゴル軍・南の南宋軍によって蔡州城を完全に包囲された(蔡州の戦い)。進退窮まった哀宗は、軍の統帥であった完顔氏傍流の呼敦(末帝)に皇位を譲り、城中の幽蘭軒において自ら縊死した。
 哀宗の死からわずか半日後、モンゴル・南宋連合軍の攻撃によって蔡州城の金軍は全滅、金はここに滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%80%E5%AE%97_(%E9%87%91)
 「1233年(天興2年/癸巳)6月、モンゴル帝国は南宋に王檝を使者として派遣し、両国で協力し金朝を討つことを申し出た。王檝を迎え入れた京湖安撫制置使・知襄陽府の史嵩之はこれを臨安の南宋朝廷に報告したところ、大臣のほとんどがモンゴルの申し出を受け入れることに賛成し、金朝を討ち積年の恨みを晴らすべきであると語りあったという。ただし、権工部尚書の趙范のみは後にかつて北宋が金朝と同盟して遼朝を打倒したものの、結局は金朝によって華北を奪われることになった故事(海上の盟)を引きモンゴルとの同盟に反対したが、南宋朝廷は遂に金朝が滅ぶまでこの協力関係を絶つことは無かった。・・・。一方、金朝は南宋に使者を急派して「唇亡びて歯寒し」の論理を挙げて、モンゴルに対抗する同盟の結成を哀願したが、既に方針を決めた南宋は金朝の提案を一蹴している。・・・
 蔡州<において>・・・、状勢を悲観した哀宗は侍臣たちに「我は金紫(高官)として十年、太子として十年、皇帝として十年、自ら大いなる過悪がないことを知るため、死すとも恨みはない。しかし、恨むのは祖宗か<(ママ)>百年伝えられた祭祀を我の代で絶ってしまうことと、古の荒淫暴乱により国を滅ぼした君主たちと一緒になってしまったことである」と語った。また、「古より滅びなかった国家は存在しないが、亡国の君主は往々にして投獄されて囚人となり、或いは俘虜として献上され、或いは階庭で辱められる。朕は必ずそのようにはならない」とも述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E5%B7%9E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 (注60)「1233年から1234年初頭にかけて行われたモンゴル帝国・南宋連合軍による蔡州の包囲戦。・・・蔡州城下・汝水で4カ月近くに渡って激戦が繰り広げられた。しかし、年が明けて1234年正月にモンゴル・南宋連合軍の攻撃によって蔡州は陥落し、この時哀宗・末帝がともに亡くなったことにより、金朝は名実共に滅亡するに至った。」(上掲)
⇒トルイの迂回的対金攻撃は、「チンギス・カン<が>・・・死の床で・・・末子のトルイに金を完全に滅ぼす計画を言い残した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3
ところのものに従ったのでしょうが、クビライによるところの、1276年の南宋の事実上の滅亡もまた、大迂回的攻撃を伴うものでした。とまれ、元が本格的に南宋征服に乗出す1268年まで、時間的余裕は34年もあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AE%8B
のであって、その間に、ひたすら軍事力の飛躍的強化に努めなかった南宋、更に言えば、中東でモンゴル軍の前進を食い止めた、エジプトに拠っていたテュルク系のマムルーク朝、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AF%E6%9C%9D
との遠交近攻的連携を試みる等をしなかった南宋・・「宋代は・・・東南アジア、インド、西アジア諸国との交易が多く、これらの国々の特産品が、アラビア海、インド洋、南シナ海、つまり南海を媒介として<宋>に運ばれ、<宋>の特産品が南海を通じて各国に運ばれていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)#%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%83%BB%E9%87%91%E8%9E%8D 
というのだから、中東情報も南宋は入手していたはずだ・・、に対しては、もはや、かけるべき言葉もありません。(太田)

(続く)