太田述正コラム#15206(2025.9.22)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その28)>(2025.12.17公開)

 「大元ウルスの経済政策とは・・・どのようなものだったのか。
 第一に、銀経済を背景にした紙幣制度を導入した。・・・
 第二に、課税収入は塩税や商税といった商業流通にたいする課税を柱とした。・・・
 塩税は、政府の<交鈔(こうしょう)(注70)>立て財政収入の5~8割にも及んだ。

 (注70)「世界初の紙幣としては宋王朝の交子があり、交鈔はさらに広範な領域で通貨として流通した。宋の交子<は>当初は鉄貨の引換券だった<。>・・・
 交鈔という名称の紙幣は、女真族の王朝である金の時代から存在していた。華北では銅が不足しており銅貨の発行に支障があったため、金は北宋を滅ぼしたのちに、宋の交子にならって紙幣と銀を導入した。こうして海陵王の時代に交鈔が発行され、のちに銀の貨幣として承安宝貨や、馬蹄銀である秤量貨幣の元宝銀も発行された。しかし交鈔は増発がされてインフレーションを起こし、金の滅亡の一因にもなった。・・・
 モンゴル帝国は金を滅ぼしたのちに、金の貨幣制度を引き継いで、第2代皇帝のオゴデイは1236年に交鈔を発行した。・・・
 安定策がとられたものの、交鈔のインフレーションは進行する。・・・
 現在のイランを中心とするモンゴル政権のイルハン朝は、交鈔にならって1294年にチャーヴ(鈔)を発行して、これが西アジア初の紙幣となった<が、>・・・定着せず2ヶ月で回収とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%88%94
 「ヨーロッパでは、民間の銀行が発行した金銀の預り証である金匠手形 (Goldsmith’s note) が通貨として流通していたが、国家による承認を受けたものとしては1661年にスウェーデンの民間銀行・ストックホルム銀行が発行したのが、銀行券としては最初のものである(だが、7年後に同行が経営破綻したために政府が受け皿として国立のリクスバンクを創設、これが世界最初の中央銀行となった)。また、1694年にはイギリスでイングランド銀行が設立され、同行の約束手形が発行された。同行の約束手形は当初手書きであったが、のちに印刷に改められたことにより、交換手形として広く流通し始めた。イングランド銀行は1844年のピール銀行条例によってイギリス唯一の発券銀行とされた。フランスでは1716年に、金融業者で投機家のジョン・ローの働きかけで使用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%B9%A3

 商税もまた財政収入の15%を占めた。

⇒支配下の集団や個人の把握など、ハナから関心がなかったことが見えてくる、元による超緩治的「統治」であったことよ。(太田)

 第三に、南宋を統合してから、高い生産力をほこった江南の富に依存した財政運営をおこなった。・・・
 最大の支出先は大元ウルスを支えるモンゴルの遊牧民集団にたいする賜与や賑救<(注71)>(しんきゅう)であり、歴代のカーンはその富を気前よく分配することで、配下の遊牧民集団の支持と服属を勝ち得た。・・・

 (注71)「施し物をして、災害、貧困などから救うこと。賑恤(しんじゅつ)。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B3%91%E6%95%91-536943

⇒モンゴルによる統治って、略奪を制度化しただけの代物だったんですね。
 さすがに、略奪しただけで後はぺんぺん草だけだったというわけじゃありませんが・・。(太田)

 <また、>シャマニズムの信仰は、中央ユーラシアの狩猟遊牧民社会において古くから広く共通してみられる文化現象だった<が、>・・・<この>モンゴル支配のもとで、ユーラシア各地で宗教勢力の再編がおこなわたのである。」(202~203、207~208)

(続く)