太田述正コラム#15208(2025.9.23)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その29)>(2025.12.18公開)
「中国における宗教の状況<だが、>・・・明清時代に至るまで、・・・チンギス=カン・・・の特許状を得<た>・・・北の全真教<(コラム#13759)>と・・・江南を支配下に入れ<た>・・・モンゴル政権の公認を受け<た>・・・南の正一教<(注72)>が中国道教の二大勢力として存続していくことになる。・・・
(注72)「北宋には、龍虎山を本山とする天師道の第24代天師の張正随が真宗に召されて朝廷の庇護の下に入った。元代になると、第36代天師の張宗演が世祖クビライに召され、任じられて江南道教を統轄するようになった。また、教団が正一教と呼ばれるようになったのも、この頃からである。元代の華北では、金代に興った新しい道教である全真教が教勢を拡大し、いつしか正一教と全真教は道教を南北に二分する二大宗派となった。
明の太祖朱元璋の作とされる「御製玄教斎醮儀文序(ぎょせいげんきょうさいしょうぎぶんじょ)」の中では、死者のための儀礼を主として行う教団と見なされている。
清に入ると、朝廷の祈祷や祭祀の行事は、チベット仏教のラマ僧に牛耳られるようになり、道教嫌いであった乾隆帝によって、遂に道教の管掌権を奪われるに至った。・・・
全真教の道士は修身養性の出家主義的だが、正一教の道士は祭儀中心の在家主義的といわれる。活動は呪符を重んじるなど、呪術性が強く、内丹学などの自己修養はあまり重視されないといわれる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%80%E6%95%99
仏教については、金代以来華北に流布していた曹洞宗・臨済宗・雲門宗<(注73)>といった禅宗諸派、華厳宗などの既存の宗派が政権の保護を受ける一方で、あらたにモンゴル皇族と結びついたチベット仏教が中国で本格的に流布した。・・・
(注73)「宋代には、・・・臨済宗とともにもっとも隆昌を極めたが、南宋以後は次第に衰え、元代にはその法系が絶え、二百余年で滅びることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E9%96%80%E5%AE%97
「『碧巌録』(へきがんろく)は、・・・宋代の禅僧で雲門宗4世の雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が、唐代の禅者の伝記の中から百則の問答を選んでそれぞれに頌(頌古〈じゅこ〉のこと。宗旨を込めた漢詩)をつけた『雪竇百則頌古』(せっちょうひゃくそくじゅこ)に、宋代の禅僧で中国の臨済宗11世の圜悟克勤(えんごこくごん)が前文と批評を加えたもの(1125年)。圜悟克勤は各則ごとに垂示(すいじ。本則に対する簡単な説示)、評唱(ひょうしょう。批評と唱和。禅的な批判鑑賞。)、および著語(じゃくご。個人の見解をもって述べる、根源的な立場から行う批評の語)を加えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%A7%E5%B7%8C%E9%8C%B2
「日日是好日(にちにちこれこうにち、にちにちこれこうじつ、ひびこれこうじつ)は、禅語のひとつ。元々は唐末の禅僧雲門文偃の言葉とされ、『雲門広録』巻中を出典とするが、一般には『碧巌録』第六則に収められている公案として知られ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%97%A5%E6%98%AF%E5%A5%BD%E6%97%A5
「元代から臨済宗で重用されるようになった。・・・
現在、金沢市大乗寺に所蔵される『碧巌破関撃節(へきがんはかんきゃくせつ)』(『一夜碧巌』)は、入宋(にっそう)していた永平道元(えいへいどうげん)が帰朝に際して、白山権現(はくさんごんげん)の助力を得て、一夜にて書写したと伝えられるもので、『碧巌集』の古型を伝えて貴重である。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A2%A7%E5%B7%8C%E9%8C%B2-129179
チベット仏教の一派であるサキャ派の高僧パクパ<(コラム#10889)>(1235~80)はクビライの信任を得、国師ついで帝師に任じられて大元ウルスの仏教全体の統率者となった。・・・
このモンゴル時代の興隆が起点となって、チベット仏教は明代に朝廷で流行したほか、16世紀にはいるとモンゴルの遊牧民にひろく普及し、さらにマンジュの人びとにも伝わって、清朝支配下で大流行することになる。・・・」(208)
⇒元は漢人文明化こそしなかったけれど、チベット「仏教」をモンゴル人の間で広めることによって、自分達の弥生性を減衰させてしまった、というのが私の見方です。(太田)
(続く)