太田述正コラム#15210(2025.9.24)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その30)>(2025.12.19公開)

 「朱子学は13世紀前半に江南から金国旧領の華北へと北伝し、許衡<(注74)>(きょこう)(1209~81)や劉因<(注75)>(1249~93)といった影響力のある学者が現れたこともあって、元代中国では朱子学が漢唐以来の訓詁学にかわり儒学の主流となったのである。

 (注74)「クビライ即位直後の漢人官僚は劉秉忠・許衡・王鶚に代表される3つのグループに分類され、許衡に代表される派閥は二程子・朱子の提唱した性理学を重んじた点に特徴があった。『元史』儒学伝は「経芸を以て専門とするは儒林と為す(以経芸顓門者為儒林)」とし、王鶚ら文章を重んずる派閥に比べ、経書の研究を重んずる許衡らの派閥を「儒林」と呼んでいた。一方、劉秉忠らの派閥とは思想的に近かったが、許衡が技術・数理的な知識を下に置き「道を以て己が任とな」していたのに対し、劉秉忠らは実学を専門とすることで一線を画していた。・・・
 日本の儒学者である浅見絅斎はその著『靖献遺言』の中で、「夷狄に仕えて大義を失った」と批判するが、一方、伊藤仁斎は許衡には許衡なりの苦衷があるとし、北宋の程顥・范仲淹とともに古今三大賢の一人に数える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B1%E8%A1%A1
 (注75)「貧しい中で子弟を教える生活に甘んじ、・・・クビライの招聘に結局は応ぜず、友人の許衡が応じたことにも反対した。劉因を訪問した許衡が、自分が元朝に仕えることについて「かくの如くなければ、道行われず」と説いたのに対し、劉因は自分の拒絶の理由を「かくの如くなければ、道尊からず」と答えたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%9B%A0
 「学説としてみるべきものはない<が、>・・・詩文に<は>名があり,格調が高く,元に対する抵抗感を秘めていると評される。・・・
 日本では江戸時代中期、大義名分論が喧伝(けんでん)された際に劉因が注目され、浅見絅斎(けいさい)(安正)の『靖献遺言(せいけんいげん)』などで唱導された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8A%89%E5%9B%A0-149495

⇒許衡は劉因より30歳年上であり、両者が友人であったとすれば、少なくとも支那では珍しいことではないでしょうか。
 なお、どちらも朱子学者であった以上、当然、儒教の祖である孔子の魯への仕官の考え方を参考にしなければならず、孔子は、当時の、季孫氏に牛耳られていた、魯、に、強い思い入れがあったにもかかわらず、見切りをつけた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
ぐらいなのですから、思い入れなどあろう筈がない、元に仕えた許衡は間違っていた、ということになるでしょうね。(太田)

 そして、長らく廃止されていた科挙・・・が仁宗アユルバルワダ<(注76)>の治世の1314年に復活すると、朱子学の経書解釈が準拠すべき学説として公認された。

 (注76)1285~1320年。「モンゴル帝国の第8代カアン(元としては第4代皇帝)。・・・『貞観政要』がモンゴル語に訳されて全国に配布され、漢文による法典が編纂され始めた。政府には漢人・非漢人を問わず儒学の素養を身に付けた知識人が集められ、延祐2年(1315年)には合格者数がきわめて少ないという限定的なものながら、科挙が復活した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%80

 こうした元代における朱子学の隆盛は、明代以後に踏襲されるとともに、同時代の高麗や日本にも伝播して、その後の東アジアの学術動向に大きな影響を及ぼすことになる。」(213)

⇒元の支配層においても、「漢人文明総体継受」が結構進んでいた、というわけです。(太田)」

(続く)