太田述正コラム#15212(2025.9.25)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その31)>(2025.12.20公開)

 「<とはいえ、>科挙<は、>・・・16回実施されたものの、応試者は金や南宋に比べて少数にとどまった。
 科挙の再開は、朱子学全盛の趨勢を決定づけたという点で学術的な意義はあったが、官僚登用としての意義は相対的に低かったのである。・・・」(214)

⇒本件に関連して、以下のような論稿を見つけました。↓
「許衡は、言語的障害があるなかで、意思の疎通をはかり、多民族、多言語の状況下で、儒教の共存性を実践しなければならなかったが、それは儒学者としては珍しい経験であった。
 許衡は求道の熱意と人生経験によって、4世紀の<支那>における僧侶、鳩摩羅什や、または明清時代のイエズス会の神父たちと似たような、典型的な宗教的宣教師ともいうべき、非常にまれな儒学者として尽力した<わけだが、その彼によって、科挙について、>・・・細かい計画をまとめる<こととされた>中書省<での担当者は、>程●<(金偏に巨)>夫<(注77)>(1249~1318)<であっ>た。・・・

 (注77)1249~1318年。旧南宋人として元朝で最高位に登った一人で、名文筆家でもあった。
https://baike.baidu.com/item/%E7%A8%8B%E9%92%9C%E5%A4%AB/8203908

 彼は・・・<儒教の>古典とそれについての程朱学の註釈書に従う解釈に試験の基盤をおくことが重要であると強調した。
 1315年に公布された<科挙の>新制度<で>は、・・・五経<は無視され、>・・・『大学』『論語』『孟子』『中庸』・・・<の>『四書』<だけ>が重視され、しかもその註釈書「朱注」だけが公認され・・・た<。>・・・
 このようにして生み出された新しい正学は、蒙古人の統治が変遷し、そして最終的にはそれが崩壊したにもかかわらず、生き残ることができたのである。・・・
 その後明朝の創設者は、・・・蒙古人の試験制度を廃止することをせず、それに酷似したものを<続けた。>・・・
 18世紀の優れた歴史家であった銭大昕は、<科挙>のこの変革を評価し、変革が興ったことの重要性を指摘することが必要であるとした。
 そして、元代では、<支那>人は『五経』についての解答が求められていたのであり、『四書』についてだけ試験されることは、本来<支那>人でないものに対する譲歩であったことに注目したが、それは「易しいものから難しいものへ」という立場から考えられたのであって、明清時代の制度のように、『五経』に代るものとして『四書』だけでよいとされたわけではない。
 ところが銭大昕の頃になると、この譲歩はあらゆる人に対する規範となってしまったが、それはその簡易性と実用性と官僚的便宜性のためばかりでなく、明らかにそれは『四書』、特に『大学』に表明されている倫理的陶冶という宰相共通分母が、公共道徳の基盤であると認められたからであり、蒙古人満州人のみならず、韓国人や日本人をも含むすべての人々に役立つことがわかったからである。 」(コロンビア大教授W・T・ド・ペリー「元代の朱子学と文教政策」より)
https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/18058/ctr005_p063.pdf
 ペリー自身の見解は「それは「易しいもの・・・」以下であるところ、私は不同意ですが、それまでの元朝による科挙の復活の背景の記述は参考になりました。
 私自身は、朱子学を支那王朝のイデオロギーにしてしまったことが、漢人文明の問題点を取り返しがつかないほど増幅してしまい、19世紀中ほどから20世紀の文革に至る間の支那の恐るべき荒廃をもたらしてしまった、と、考えています。(太田)

(続く)