太田述正コラム#15214(2025.9.26)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その32)>(2025.12.21公開)

 「1320年代以後には、・・・19世紀までつづく「小氷期」<(注78)が>はじまり<、>・・・ユーラシア各地で異常気象が目立つようになり、天災による不作が飢饉や疫病をひきおこした。・・・

 (注78)「この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。・・・気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述している。・・・
 飢饉が頻繁に発生するようになり(1315年には150万人もの餓死者を記録)、疾病による死者も増加した。アイスランドの人口は半分に減少し、グリーンランドのヴァイキング植民地は全滅の憂き目を見た。・・・日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制を揺るがした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B0%B7%E6%9C%9F

 「14世紀の危機」と呼ばれる。
 こうした危機のなかで、各地のモンゴル政権は動揺し、次第に解体へと向かっていく。

⇒寒冷化は、下の「注79」からも分かるように、モンゴルのような騎馬遊牧民にとっては、何が何でも南の支那にとどまる方向のインセンティブをもたらすだけに、この総括的叙述には、いささかひっかかります。(太田)
 
 <振り返れば、>「五胡十六国時代」<は、>・・・寒冷化の影響で多くの遊牧民が中国本土へ南下した<結果はじま>・・・った。<(注79)>・・・

 (注79)「日本では「古墳寒冷期」と呼ばれる時期<があ>り、長野県唐花見湿原の花粉分析にもとつく研究によれば、紀元後246年から急に寒冷化し、732年にいたるまで長い寒冷期間を迎えたとされる・・・。一方、<支那>でも紀元後300年から630年は比較的冷涼でかつ乾燥した時代であり、さらにこうした気候変動は、人間活動に重大な影響をおよぼしたとする見方がある・・・。・・・
 魏晋南北朝時代とは後漢崩壊後の3世紀から隋が<支那>を再統一する6世紀までのおよそ400年間の時代で、遊牧民族の南下、貴族文化の隆盛、仏教や道教の社会への浸透など、大きく時代を画する出来事が起こった時代である。日本では卑弥呼から倭の五王をへて聖徳太子にいたる時代となるが、・・・唐以前の人口の増減は、あたかも・・・推定<され>た気温変化に沿うように推移してい<て、気温低下と人口減少が相関しているように見え>る。またこの時代には、漢民族の江南への南下が進むが、こうした人品移動についても気候の寒冷化の影響を重視する見方がある。」
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/1/19148/20160528004427372876/011_021_029.pdf

 契丹は、・・・拓跋国家とは<違って、>・・・遊牧王朝の制度と唐に由来する中国王朝の制度を組み合わせた蕃漢二重体制というべき複合的な支配体制を生みだしたのである。・・・
 <そして、>遊牧軍事力を中核とする北方の王朝が経済力の豊かな江南の富を吸い上げるしくみは、多国体制時代の澶淵体制による歳幣(歳賜・歳貢)を経て、大元ウルスにおいてより成熟した完成形に到達したと言えるだろう」(216、220、224)

⇒この総括ぶりは、首肯できます。

(完)