太田述正コラム#15246(2025.10.12)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その15)>(2026.1.6公開)

 「・・・<やがて、>「垂簾聴政」が「中央」政府に、「督撫重権」が「軍閥」勢力に転化し<ていく。>・・・
 <また、>1880年代、列強の金本位制移行にともなう銀貨下落で、銀貨圏の中国産品の輸出が増加し、ついで1890年代以降、第二次産業革命が本格化、ドイツ・アメリカなどの化学工業が勃興し、いよいよ中国本土(チャイナ・プロパー)の第一次産品の需要が増した。
 列強は求める産物をもつ各地域と直接に取引をはじめ、緊密に結びつく。
 各地が互いに銀で連絡し、まとまりをなしていた従前の地方間分業は、かくて各地が海外に直結したことで、バラバラの様相を呈した・・・。
 それを通貨的に表現したのが、「銀銭二貨制」から「雑種幣制」への変化である。
 主として銀地金と銅銭でなりたっていた貨幣は、各地の金融機関がそれぞれ発行する紙幣や銅貨、銀貨などの混在するありさまとなった。・・・
 時あたかも日清戦争・義和団事変と時代が重なったため、「瓜分」<(注29)>という政治情況を呈していた。

 (注29)かぶん。「<支那>分割(・・・繁体字: 瓜分中國, 瓜分清朝, 瓜分風潮、英語: Scramble for China)または利権争奪(・・・英語: Scramble for Concessions)は、1890年代後半に欧米が清朝を分割した出来事、また積極的に漢土を勢力圏としようとする新帝国主義的な思想を指す。・・・
 第一次アヘン戦争(1839-1842年)に始まり、1949年に中華人民共和国が建国されて終わった。・・・
 西<欧>列強によるアフリカ分割も同時期に出現し、1914年までにアフリカ大陸のほぼ全域が直接植民地化された。・・・
 <米>国務長官は1899年に「門戸開放政策」を打ち出し、<欧州>列強が中国を植民地として切り分けようとするのを阻止し、関心を持つすべての列強が中国に平等にアクセスできるようにすることを提案した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%89%B2

 これも外から線引きをした、というよりは、中国各地の結びつきが外国との直結に変化した事態の政治的な表現と見た方が肯綮にあたっている<(注30)>だろう。

 (注30)「肯綮(こうけい)に中(あた)る<。>・・・急所をつく。中心部分にぴったり的中する。ポイントにあたる。「肯」は、骨を包んでいる肉。「綮(けい)」は、筋のからみ合っている所で、共に牛を料理するのに、いちばん切り離しにくい所とされている。「中(あた)る」は、当たるの意。」
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/kotowaza32

 各省督撫に君臨していた清朝が退場し、すでに外国と直結していた各省が自律した結果が、1911年の辛亥革命・13年の第二革命<(注31)>・16年の第三革命の各省「独立」<(注32)>であり、以後の軍閥混戦にほかならない。」(158、173、175)

 (注31)「1913年7月、孫文ら国民党勢力は袁世凱政権打倒のため、民国革命の二段階目として、一連の軍事蜂起をしたが、この時の国民党側は内部統率が取れず、民間や海外の支持も集めきれない中で敗北し、鎮圧された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%9D%A9%E5%91%BD
 (注32)「第二革命が失敗すると、袁世凱は権力を強化して皇帝になることを望んだ。彼は1915年、<米国>人御用学者グッドノウに帝制賛美論を書かせて世論づくりに役だて、また腹心の楊度(ようたく)らに籌安会(ちゅうあんかい)を組織させて帝制復活の宣伝に努めた。そして同年12月、国民の推戴を受けたとし、翌年1月をもって年号を洪憲(こうけん)とし、即位式をあげることを定めた。時代に逆行する帝制運動に対しては元来反対も多かったから、15年12月、蔡鍔(さいがく)、唐継堯(とうけいぎょう)らが雲南省で独立を宣言し、「護国軍」を組織すると、西南各省もこれに応じた(第三革命)。護国軍側が優勢であったため、16年3月、袁はやむなく帝制を取り消し、6月死んだ。袁の死により、帝制復活阻止という第三革命の基本的任務は達成された。その一方、第二、第三革命を経て力をつけた各地の軍閥は、袁世凱という中心人物を失ったこともあり、以後、互いに激しく争うようになった。こうして中国は軍閥混戦時代に入っていった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E9%9D%A9%E5%91%BD-3158463

⇒第二革命、第三革命、という呼称は今まで知りませんでしたが、第三革命については、「注32」を踏まえれば、岡本のように1916年、ではなく、1916~1917年、とすべきように思います。(太田)

(続く)