太田述正コラム#15264(2025.10.21)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その4)>(2026.1.15公開)

 「・・・Theodosius<(注4)>, who had ruled both east and west since 392, died three years later, dividing the empire between his two sons.

 (注4)テオドシウス1世(347~395年。皇帝:379~395年)。「コンスタンティヌス1世以来、初めてコンスタンティノポリスに常住した皇帝である。わずか4ヶ月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。・・・
 マクシムス<(前出)>は・・・384年には東方正帝テオドシウスからも共同皇帝として承認され、もう一人の西方正帝ウァレンティニアヌス2世が統治していたイタリア半島を除いた西方の支配者となった。しかしまもなくマクシムスとウァレンティニアヌス2世は対立し、387年にマクシムスはイタリアに軍を進め、ウァレンティニアヌス2世はテッサロニキへ逃亡した。テオドシウス1世はウァレンティニアヌス2世を支持してマクシムスを攻撃し(サヴァ川の戦い)、翌388年8月28日にマクシムスとその子で共同皇帝でもあったウィクトルを処刑して、ウァレンティニアヌス2世を西方の首都メディオラーヌム<・・現在のミラノ・・>の宮廷に復帰させた。テオドシウス1世はウァレンティニアヌス2世の後見人としてメディオラーヌムに留まり、西方の主要な行政官をテオドシウス1世の息のかかった人物へと次々に入れ替えていった。テオドシウス1世はメディオラーヌムの宮廷が自らの支持者で満たされたのを確認した後、391年にコンスタンティノポリスの宮廷へと帰還した。
 392年のウァレンティニアヌス2世の死後、フランク族出身の軍司令官アルボガストによって元老院議員のエウゲニウスが西方皇帝に推戴された。エウゲニウスはテオドシウス1世によって弾圧されつつあった古代ローマの伝統宗教を擁護する政策を採り、オリエント化が進む東方を嫌悪していたローマ人から支持を集めた。エウゲニウスが西方で支持を集めるにつれ、テオドシウス1世の西方に対する影響力は弱まっていった。これに対してテオドシウス1世は次男のホノリウスに西方皇帝を名乗らせると394年にイタリアに軍を進め、フリギドゥスの戦いでエウゲニウスらを破ってメディオラーヌムを占領し、ホノリウスをメディオラーヌムの宮廷へ住まわせた。まだローマでは元老院が抵抗を続けていたが、テオドシウス1世は没するまでの4ヶ月間を西帝ホノリウスの後見人としてメディオラーヌムに滞在して元老院に圧力を加え、ローマ帝国の東西を実質的に単独支配した。
 395年1月、冬営中のメディオラーヌムにおいて48歳で死去した。死に際してテオドシウス1世は、自らの下で既に正帝を名乗らせていた2人の息子に、それぞれコンスタンティノポリスを首都とする東方とメディオラーヌムを首都とする西方とを分担統治させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B91%E4%B8%96
 「ミラノは古代ローマ時代にはメディオラヌム(メディオラーヌム)と称され、紀元前600年のケルト人(インスブレス人)の町で聖域を意味する Medhelanon をラテン語化した名前から来ている。前222年にローマが征服したが、そのどちらにもMediolanum(平原の真中)と称され、293年から402年まではMailandとも称された。その後はローマ帝国のもとで繁栄した。4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代には西ローマ帝国皇帝の宮殿が置かれ、西ローマ帝国の首都であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%8E

⇒この間、元老院は、一貫してローマに置かれていたようですが、どうして、「皇帝<だけ>がローマ市から離れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81%E9%99%A2_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E)
のかは、調べる労を惜しみました。(太田)

 Both were young and inexperienced. Arcadius, who ruled in the east, was seventeen years old; Honorius, who succeeded to the west, only ten. Feuding and civil war between competing factions followed, while the barbarian menace continued to increase: in 401 and 402 Italy itself was invaded by the Goths.<(注5)>

 (注5)「皇帝テオドシウス1世(在位 379年 – 395年)は、382年に西ゴート族と和平条約を結び、同盟者として帝国内に定住することを認めた。
 395年にテオドシウス1世が没し、帝国が2分され東ローマ帝国初代皇帝となったアルカディウス(在位 395年 – 408年)は、先帝が結んだ西ゴート族への給付金の約束を違えた。これに対して、西ゴート族は新たに王となったアラリック1世(在位 395年 – 410年)のもと反乱を起こす。アラリック1世率いる西ゴート族の軍勢は、395年よりバルカン半島の諸都市を襲撃し莫大な賠償金を得る。その阻止に向かった西ローマ帝国の将軍スティリコの追撃を躱(かわ)したアラリック1世は、400年にイタリア半島北部に軍勢を進める。西ローマ帝国初代皇帝ホノリウス(在位 395年 – 423年)はミラノの宮殿を捨ててラヴェンナに避難したが、再びスティリコにより西ゴート族は撃退される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%95%A5%E5%A5%AA_(410%E5%B9%B4)

 These tumultuous events must have had an impact on Britain, but precisely what that impact was we cannot say. What we do know is that 402 is the last year in which Roman coins appear in Britain’s archaeological record in any significant quantities. The minting of coins in London had ceased after the death of Magnus Maximus in 388, and since then the province had been reliant on new supplies from the mainland, principally from Milan. But in 402 Milan was deemed to be too close to the fighting on the other side of the Alps, and production was moved to Ravenna. After this relocation, the bulk import of coin to Britain suddenly ceased.16 This was probably the final straw for the army in Britain: nothing is likelier to have created discontent among the soldiery than not being paid. Of course, there would still have been an existing currency in circulation, but without regular transfusions from the Continent it cannot have been enough. The British authorities evidently tried their best to cope. The vast majority of coins recovered from late Roman Britain show signs of ‘clipping’ – that is, of having had some amount of silver sheared from their edges. In the case of the Hoxne Hoard, 98.5 per cent of its 14,500 silver coins had been mutilated in this way, some of them losing almost a third of their original weight. This is likely to have been an official attempt to make the existing currency go further: after 402 we find coins struck in Britain that are imitations of genuine imperial issues, suggesting that at least some of the silver clipped from older coins was being recycled to make new ones.」(19)

⇒ブリタニアでは、銀がとれず、大陸からの(銀貨はもとより、)銀鉱石や銀のインゴットの輸入もできなかったのですね。
 船で象も運べたというのですから、こういった値が張るものの運搬には軍隊による護衛が必要であったけれど、軍隊の確保ができなかったといったところでしょうか。(太田)

(続く)