太田述正コラム#15336(2025.11.26)
<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』を読む(その26)>(2026.2.20公開)
「・・・Because 1066 was such a watershed moment, histories of the years leading up to it are often written as a prelude, and can give the impression that people at the time were expecting the Conquest, or could somehow have foreseen its cataclysmic effects. Yet there is no sense in the sources that contemporaries anticipated the storm before it broke. For most of the fifty-year period before 1066, the English were preoccupied, as they had been for centuries, with affairs in Scandinavia, and in particular with the fallout of the Danish Conquest of 1016, an experience that was far more traumatic than is generally recognized. For the first half of this period England was ruled by King Cnut and his sons<(注42)>, as part of a wider empire that stretched across the North Sea.
(注42)クヌート1世(Cnut cyning。990?~1035年。イギリス王:1016~1035年)。「デンマーク王スヴェン1世の子。・・・父スヴェンおよび叔父ボレスワフ1世配下のポーランド諸侯と共に<イギリス>に侵攻して活躍した。1014年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、アングロ・サクソン封建家臣団の会議で<イギリス>王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄ハーラル2世の死によりデンマーク王位を継承した。彼は富と慣習の文化的結束の下でデーン人と<イギリス>人をまとめることにより、また残虐行為によりこの権力基盤を維持しようと努めた。その後はノルウェーやスウェーデンに遠征して勢力を拡大した。スカンディナヴィアにおける敵対勢力との10年にわたる対立の末、彼は1028年のトロンハイムにてノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。ここに、広大な北海帝国を築き上げたのである。・・・
1035年に40歳で死去すると後継者争いが起き、北海帝国はクヌートの死後わずか7年で崩壊した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ハロルド1世(Harold Harefoot。1015?~1040年。イギリス王:1035~1040年)。
「ハロルドにとっては異母弟にあたるハーデクヌーズがデンマークと<イギリス>両方の正統な王位継承者だった。しかしハーデクヌーズは、デンマーク王国がノルウェー王マグヌス1世とスウェーデン王アーヌンド・ヤーコブの侵略を受けていたために、<イギリス>の戴冠式に行くことができなかった。<イギリス>の有力者たちは、ハーデクヌーズ不在の難事のために、ハロルドを一時的に摂政に就任させるというアイディアを支持した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%891%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
ハーデクヌーズ(Hardeknud。1018/1019~1042年。イギリス王:1035~1042年)。
「ハーデクヌーズ王は<イギリス>王即位以前より、結核の発作に苦しんでいたとされ、おそらくは自身の余命がそれほど長くはないことを察知していたのではないかと考えられている。そして1041年には自身の異父兄弟エドワードを彼の亡命先から呼び戻した。おそらくは後継者に指名したのであろう。ハーデクヌーズとエドワードの母親であるエマは、自身の息子たちを続けて<イギリス>王に即位させることで、王国における影響力を保持し続けようと試みていたのではないかと考えられている。そんなエマの影響をハーデクヌーズは大いに受けて育っていたため、エドワードを呼び戻したのかもしれない 。ハーデクヌーズは生涯を通じて結婚することはなく、子供もいなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%82%BA
エマ・オブ・ノーマンディー(Emma。985?~1052年)。
「ノルマンディー公リシャール1世・・・の娘<。>
エゼルレッド2世との結婚は1002年で、2度目の妻だった。海峡を挟んで脅威であったノルマンディーの攻撃を回避するための政略結婚だったと思われる。
エゼルレッド2世との間に3人の子供が生まれた。
ゴーダ(Goda、またはGodgifu)(1004年 – 1047年頃) – ドルー・ド・ヴェクサン、続いてブローニュ伯ウスタシュ2世と結婚。
エドワード懺悔王(1004年頃 – 1066年) – <イギリス>王
アルフレッド・アシリング(Alfred Aetheling)(1005年頃 – 1036年)
1013年、デンマークがイングランドを侵略し、子供のエドワードとアルフレッドはノルマンディーに亡命した。
1016年、エゼルレッド2世が、さらに続いてイングランド王となったエドマンド2世(エゼルレッド2世と最初の妻の子)が亡くなり、デンマーク王子クヌートがイングランド王になった。
クヌートには「仮祝言した」妻エルギフ・オブ・ノーサンプトン(Aelgifu of Northampton)がいたが、1017年にエマと結婚した。クヌートはエマとの間に生まれた子ハーデクヌーズをデンマークの王位継承者にすることを誓約した。それは、エマへの愛を意味しているのかも知れないが、ノルマン人に現状に満足し、介入を思いとどまってもらう意図もあったようで、つまり、最初の結婚の時と同じく、政略結婚であったことを窺わせる。
クヌートとの間に2人の子供が生まれた。
ハーデクヌーズ(1018/19年 – 1042年) – デンマーク王、イングランド王
グンヒルダ(Gunhilda)(1020年頃 – 1038年) – 神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世の最初の妻。
1035年、クヌートが亡くなった。デンマーク王は約束通りハーデクヌーズが継承したが、イングランド王の王冠をかぶったのは、イングランド貴族の支持を受けた、ハーデクヌーズの異母兄ハロルドだった。
1036年、息子のエドワードとアルフレッドがエマに会うために、亡命先のノルマンディーから帰国した。ハロルドに対抗する動きのように思われる。しかし、弟のアルフレッドは捕らえられ、目を潰され、その傷がもとでまもなく死んでしまった。兄のエドワードはノルマンディーに逃げ帰った。エマ本人もすぐさまブルッヘ、それからフランドル伯の宮廷に逃げた。『Encomium Emmae(エマ賛辞)』という本はその宮廷で書かれたものである。・・・
1040年、ハロルドが亡くなり、ハーデクヌーズがイングランド王の王冠をかぶった。ハーデクヌーズはノルウェーとスウェーデンの領土を失っていたが、デンマークの安全は確保していた。
1041年、エドワードが帰国した。ハーデクヌーズはノルマンディー宮廷に対して、もし自分に子供がいなければエドワードが王になるべきだと言った。
1042年、ハーデクヌーズが亡くなって、エドワードがイングランド王になった。・・・
エマの2度の結婚はイングランドとノルマンディーの強い絆を生み、後にそれはエマの大甥ウィリアム1世による1066年のノルマン・コンクエストで頂点を迎えることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
In the second half there was a surprising reversal, which saw the restoration of the ancient house of Wessex, and the accession of Edward the Confessor, a son of Æthelred the Unready. These changes of dynasty made life for England’s ruling elite extremely complicated: ancient loyalties were eroded, identities were called into question, and deep divisions were sown, with ultimately fatal consequences. No one personifies these changes and conflicts better than Harold Godwineson<(注43)>, who ascended to the throne at the start of 1066.
(注43)ハロルド2世(1022?~1066年。イギリス王:1066年)。
「クヌート大王と結びつきが強かったとされるアングロサクソン貴族ゴドウィン家の出身である。彼は父であるウェセックス伯ゴドウィンの死後、王国で有数の有力貴族として手腕を振るった、そして1066年1月5日、彼の義弟でもある<イギリス>王エドワード懺悔王が後継者なしに崩御したことを受け、賢人会議の取り決めにより・・・まだ成人年齢に達していなかった懺悔王の大甥エドガー・アシリングを押しのけて・・・彼はハロルド2世として<イギリス>王に即位した。おそらくハロルドはウエストミンスター寺院で戴冠式を行った初の<イギリス>王であるとされている。そして同年9月後半、<イギリス>王位継承権を主張してイングランドに侵攻しヨークに拠点を構えていたノルウェー王ハーラル・シグルズソン率いるノース人ヴァイキングをスタンフォード・ブリッジの戦いで撃滅し、その2週間後に返す刀で、同様の理由で<イギリス>に侵攻していたノルマンディー公ギヨーム2世の軍勢をヘイスティングズで迎え撃った。しかしこの戦いでハロルドは敗れ、戦死した。・・・
ハロルドはその後、ギヨームより武具を授かり、また叙任を受けた。・・・ハロルドは・・・ギヨームに対して忠誠を誓い、ギヨームの<イギリス>王即位への支援を約束したという。エドワード懺悔王の死後、ノルマン人はハロルドが<イギリス>王即位を受諾したことを受け、彼のギヨーム公に対する忠誠を反故としたことに対して反発の意をすぐさま示したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%892%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
As his surname suggests, the doomed king was not a descendant of either Cnut or Æthelred, although he was indirectly related to both. His father, Godwine, was English, but his mother, Gytha, was Danish – a fact which explains why the couple gave their son the Scandinavian name ‘Harold’. Their marriage had come about as a direct result of the Danish Conquest of 1016, and no Englishman had profited more from that hostile takeover than Godwine himself.」(361)
⇒エマの話は私にとっては初耳であり、極めて興味深く思いました。
そして、エマ、や、ハロルド2世が既にウエセックス王家の出ではない以上、やはり同王家の出ではないものの、ウェセックス家と縁の深いギョームに取って代わられたのは止むを得ないことのように思えてきました。(太田)
(続く)