太田述正コラム#15344(2025.11.30)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その1)>(2026.2.24公開)

1 始めに

 表記のシリーズをお送りします。
 高橋陽介(1969年~)については、静岡県出身で東海古城研究会・勝永座談会・佐賀戦国研究会・織豊研究会に所属
https://www.kawade.co.jp/np/search_result.html?writer_id=14010
ということくらいしか分かりませんでした。
 なお、自費出版されたところの、高橋陽介『一次史料にみる関ヶ原の戦い』(2015年11月)、へのコメント
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04609.pdf?file_id=8221
がネット上にあったので、これも必要に応じて参照しつつ、私自身のコメントを付すことにします。

2 『シン・関ヶ原』を読む

 「・・・関ヶ原の戦いは、「家康が天下取りのために仕掛けた戦」という文脈で語られがちである。
 だが、このあとくわしく述べるように、合戦が起きる前から、家康はすでに天下を取っていた。
 だから家康は、西軍の挙兵など予想していなかったのだ。

⇒「だから」から始まる文章は意味不明です。
 「天下を取っている」ことの定義はさておき、「天下を取ってい」ようと取っていまいと、反徳川勢力が挙兵する可能性が、当時、あったと私は考えているからです。
 そんな可能性はなかったというのなら、高橋はその根拠を示すべきでした。(太田)

 秀吉の死から1年が過ぎた慶長4(1599)年8月14日、徳川家康は、毛利秀元・前田玄以・山岡道阿弥<(注1)>らをしたがえて後陽成天皇のもとへ参内した。

 (注1)山岡景友(1540/1541~1604年)。「僧侶、大名、武将。豊臣秀吉の御伽衆。・・・六角氏家臣の勢多城主山岡景之の四男として誕生した。・・・甲賀を出自とする一族の出身である<。>・・・15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられ<る。>・・・足利義昭→織田信長→柴田勝家→織田信雄→豊臣秀吉→徳川家康<、と仕え、>・・・家康によって>常陸国古渡藩の初代藩主<となる>。・・・
 婿養子の景本は幼かったので嗣子として認められず取り潰しとなり、藩は無嗣除封で改易となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E6%99%AF%E5%8F%8B

 常御所で「三献(さんこん)の儀」<(注2)>がなされ、家康は太刀、折り紙、銀100枚、中折紙100把を進上した。

 (注2)「三献は元は公家文化で、保延2年(1136)、藤原頼長が内大臣に就任した時に行われた、祝いの饗応に於いて饗膳に先立ち、出席者の間に盃を3回回している様子を『台記』に見ることが出来ます。
 一つの盃を共有することにより、その場に臨座している人々の間の絆や縁を結ぶという考え方で、出陣式、帰陣式のそれは、神との絆を結び直す儀式になります。」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890230802/episodes/16817330659354994184

 これは秀吉やそれ以前の足利将軍と同様の儀礼であり、つまり朝廷は、徳川家康を「天下人」として認めたことになる。

⇒「注2」を踏まえれば、家康が秀吉の命日参詣の事前報告に参内した際に、遅ればせながら内大臣就任祝いを、当時武士の中で最高位であった彼に対して後陽成天皇がやってくれた、という程度の話だった可能性が高いのであって、そうでないというのなら、高橋はもう少し具体的な説明をすべきでした。
 なお、この9月には、家康は、「秀頼の名のもと諸大名への加増を行っている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
ところ、どう見ても、当時の天下人は家康ではなく秀頼だったと言えそうです。(太田)

 秀吉の命日にあたる8月18日、家康は、小早川秀秋・宇喜多秀家・毛利輝元らをはじめとする諸大名をひきつれて、豊国神社を参詣した。
 豊臣秀頼の名代としては京極崇継が参詣した。

⇒これも、名代ながら秀頼による参詣に、五大老筆頭の家康以下が随従した、ということに他ならないでしょう。(太田)

 8月20日、家康は、九州の島津忠恒・立花親成・松浦宗信・・・ら諸大名へ、海賊を取り締まるよう命じた。
 同日、家康は寺沢(てらざわ)正成<(注3)>(豊臣政権における島津家指南役)に、伊東祐兵(すけたか)(日向飫肥5万石の領主)・島津忠豊(日向佐土原3万石の領主)に宛てた・・・書状を託した。・・・

 (注3)寺沢広忠(1563~1633年)。「織田信長・羽柴秀吉に仕えた寺沢広政の子。名を正成・広忠とも。・・・
 父の跡を継いで信長に仕え、ついで羽柴秀吉の臣となる。
 文禄の役に際しては、その準備としての肥前国名護屋城の普請に加わった。朝鮮半島への派兵が開始されると秀吉の側近として兵の輸送や補給、船舶運行の統制などを行った。
 文禄2年(1593)の秀吉の帰洛以後は、事実上名護屋城を預かっている。文禄4年(1595)には 明国の講和使節を日本に迎えるため、朝鮮に渡海した。
 文禄元年(1592)から慶長7年(1602)の間は長崎奉行として、貿易の統制も行った。
 文禄3年(1594)、波多親(はた・ちかし)の除封後、肥前国唐津を領した。この頃の禄高は肥前国で3万7千余、薩摩国で2万余、肥後国で4千余、総計で6万1千余石。
 秀吉の没後は徳川家康に接近。慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属して岐阜城の攻略などで功を挙げた。その恩賞として慶長6年(1601)2月に肥後国天草郡で4万石を加封され、旧領と合わせると12万石の禄高となった。慶長7年(1602)に天草城を築城。
 慶長19年(1614)の大坂冬の陣に従軍し、天王寺での戦闘に参加している。
 寛永2年(1625)、隠退して二男の堅高に家を譲った。
 寛永10年(1633)・・・に没した。・・・
 広高の没後の寛永14年(1637)10月、キリシタン弾圧と農民に対する苛政に一揆が蜂起して島原の一揆勢に合流、島原の乱となる。翌年、堅高は天草領の4万石を没収され、正保4年(1647)に発狂して自刃、絶家となった。」
https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/TerasawaHirotaka.html

 のちに家康が会津の上杉景勝を攻めようとした理由について、「家康は豊臣政権における軍事を掌握しようとした」とする説があるが、このように家康は慶長4年の時点ですでに、豊臣政権における軍事を掌握していた。
 ・・・庄内(日向・・・)・・・攻め、海賊の取り締まりは、いずれも明確な軍令であり、これらはいわゆる「五大老五奉行の合議」によって決定されたものではない。」(18、25、27)

⇒これも、単に、五大老筆頭の家康が、日常業務のレベルの命令を単独で発しただけでは?(太田)

(続く)