太田述正コラム#15346(2025.12.1)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その2)>(2026.2.25公開)
「・・・慶長4<(1599)>年9月9日、徳川家康は大坂城に参上し、豊臣秀頼に拝謁した。
そして翌9月10日、家康は秀吉の遺言に従い、秀頼の生母・淀殿を室として迎えた・・・。
淀殿を室として迎えることについては、家康は同年1月に、4人の年寄(前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と5人の奉行(浅野長政・増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以)から意見されていた。
これに対して家康は、すみやかに執り行うと約束していた。
しかし9月14日、家康は「淀殿と大野治長の間に不義があった」と言い立てて、淀殿との婚姻を一方的に破棄してしまった。・・・
⇒高橋は、「室として迎えた」、「婚姻を・・・破棄し・・・た」、と、あたかも婚姻が成立していたかのような書き方をしていますが、彼は典拠として看羊録を引用しているところ、そこには、「室にしようとしました」とあるので極めて誤解を呼ぶ書き方です。
いずれにせよ、高橋は、秀吉の「遺言」に該当部分があることを裏付ける典拠も、家康以外の年寄と5奉行の「意見」を裏付ける典拠も、明らかにしていない以上、こんな話はガセであると断ぜざるをえません。(太田)
12月、家康は、島津忠恒の父・維新<(義弘)>に「茅国科<(注36)>(ぼうこくか)を明へ送還するように」と命じた・・・。
(注36)「島津家にはかなりの<支那>人家臣がいたようだ。彼らの中には、豊臣秀吉の進めた不義の朝鮮出兵をやめさせるため、島津家に食い込んだ者もいる。汾陽理心こと郭国安は、明軍と連絡をとり、犠牲の多い合戦を抑える努力をした。郭は、ひそかに秀吉の死を知らせ、日本軍が撤兵を急いでおり、食糧も欠乏する内情を知らせた。これは、島津義弘の意志なしでは進められない。義弘が豊臣政権の撤兵命令が届く前から、自発的に講和と撤兵の交渉を始めたのは、島津家の国際感覚と外交センスの高さを物語る。・・・
もっと重要なのは、明将の茅国器(ぼうこくき)やその部下・史世用(しせいよう)らと連絡を取り合い、国器の弟・茅国科(こくか)を人質にして、朝鮮半島から整然と撤退したことだ。義弘は徳川家康とともに、秀吉による不義の戦いの批判者であった。島津・家康・明の間に秀吉暗殺の密約があったのではないか。
この推論を紹介するには紙幅が限られているが、日本軍の朝鮮撤退の理由ははっきりしている。情報通で外交力にたけた義弘の力量だというのは、当時の政治家と後世の歴史家に共通する見方である。」
https://www.sankei.com/article/20220822-6ATPYP4B7ZNJTNKYT4AKSJO7NE/
⇒私は、反日蓮主義者であった家康と信長流日蓮主義者であった義弘、かつまた、その義弘と秀吉流日蓮主義者であった彼の息子の忠恒(家久)(コラム#15215)、は、それぞれ同床異夢だった、と、見ているわけです。(太田)
茅国科とは、慶長の役で秀吉が出兵した日本軍が朝鮮から撤退したときに、維新が明軍から受け取った人質である。
小西行長が明軍から受け取った2人の人質についても、同じ時期に送還が指示された。
小西行長・寺沢正成らが明軍の提督に宛てた書状にはこうある。・・・
・・・徳川家康が秀頼君に意見をし、人質を送り返すことにしました。・・・
茅国科が浙江巡撫に対して釈明した内容は、以下のとおりである。・・・
・・・<自分の>日本・・・到着後、・・・秀吉の子を補佐して執政している徳川家康は・・・すぐに日本軍の撤兵を命じ、また維新にわたくしを明へ送還するよう命じました。・・・
家康がすでに天下人であったことは明らかなのである。」(27、29~32)
⇒茅国科は、自分の日本到着時、だけでなく、明への送還時、においても、家康が秀頼の補佐でしかないと読み取れる証言をしているわけであり、家康が送還時、すなわち1599年、において、いまだ天下人ではなかったことは、もはや「明らかなので」はないでしょうか。(太田)
(続く)