太田述正コラム#15348(2025.12.2)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その3)>(2026.2.26公開)
「慶長5年の2月下旬、家康は・・・ふたたび景勝に上洛を要請した。
景勝が上方を離れてから、すでに半年以上が経過していた。
年寄が上方に常駐することは秀吉の遺命で定められていて、家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元は、それを守っていた。
家康はけっして無理を言っているわけではない。
しかし3月中旬、景勝は徳川秀忠を通じて家康へ、会津で普請をしているためすぐには上洛できない旨を回答した<(注37)>。
(注37)「上杉氏・・・には、城地と領民を一元的に支配していた戦国大名の性格を克服できず、新たな領国(会津)の経営に執着する余り、家康統治の新体制への対応をなおざりにするという政局認識の甘さが結果的に政策優先順位の錯誤を生み、会津征伐を起こされる羽目に陥らせたとする・・・宮本義己<の>・・・指摘がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
宮本義己(みやもとよしみ。1947年~)。國学院大博士課程満期退学、帝京大等を経て國学院大と芝浦工大講師。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E5%B7%B1
4月1日、家康の内意を受けた西笑承兌<(注38)>は、景勝の家老・直江兼続へ書状を送った。
(注38)さいしょうじょうたい(1548~1608年)。「臨済宗の僧。・・・豊臣秀吉の側近となり、ポルトガル領ゴア総督やスペイン領ルソン総督への外交文書を執筆するなど、外交分野でも活躍した。文禄・慶長の役においては名護屋城に赴いた秀吉の側近くで仕えた。文禄の役後の講和交渉では、秀吉の前で明使からの冊封状を読み上げた。この際講和交渉にあたっていた小西行長から、穏当に読み替えて読むように依頼されていたが、承兌はそのまま読んだために、秀吉は激怒したとされる。秀吉没後には朝鮮との講和交渉や、朱印船貿易などに関与している。
慶長5年(1600年)には、徳川家康の命を受けて上杉景勝の家老直江兼続との交渉に当たった。この時、承兌への返書として兼続から送られたとされるものが、後世にいう直江状である。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)には家康から寺社訴訟の取り扱いを命じられ、三要元佶とともにこれにあたった。この承兌の役割は当時の興福寺の僧から「日本寺奉行」と称されている。また度々指導を行っていた南禅寺の以心崇伝を家康に推薦し、重用されるきっかけを作っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%AC%91%E6%89%BF%E5%85%8C
その内容は以下のとおりである。・・・
・・・家康公が景勝殿の上洛を要請したのは、朝鮮へ使者を遣わし、交渉の結果次第では、来年か再来年には人数を出す(軍勢を送る)つもりで、その相談をしたいためであるとのことです。
もしも近々上洛されるのであれば、家康公の相談相手となり、意見を申し上げてください。
少しでも早い上洛が望まれます。・・・」(36、38)
⇒上杉景勝は、「文禄元年(1592年)、秀吉の朝鮮出兵が始まると、5,000人を率いて肥前国名護屋に駐屯し、翌文禄2年(1593年)の6月6日から9月8日まで、秀吉の名代として家臣の高梨頼親らを伴って朝鮮に渡る。このとき朝鮮半島における日本軍最前線基地として熊川に城(倭城)を築城している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
し、直江兼続も、「文禄元年(1592年)からの文禄・・・の役においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城」している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%B1%9F%E5%85%BC%E7%B6%9A
ところ、そもそも、上杉家は、日蓮主義家である(コラム#省略)ことから、秀吉の唐入りには積極的に参加したと思われ、その後、「文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡の金銀山の支配を任せられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D 前掲
こともあり、石田三成らによる唐入りサボタージュに気付かぬままであった可能性はある・・「家老の直江兼続が・・・石田三成と懇意にあった」(上掲)のはそのためか・・けれど、同年6月から景勝は家康らと共に豊臣家の6人・・後に5人・・の大老のうちの1人に任ぜられ、慶長元年(1596年)2月の上洛後慶長3年(1598年)3月までの上方での家康との交流を通じてその反日蓮主義的姿勢に不快感を抱くに至り、これらのことが、景勝の反家康意識をもたらした、と、私は見るに至っています。
そのことを示唆しているのが、唐入りの再開をにおわせる「家康の内意を受けた西笑承兌」の書状の文面です。(太田)
(続く)