太田述正コラム#15350(2025.12.3)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その4)>(2026.2.27公開)

 「・・・家康は、石田三成には会津征伐に参陣するように求めている一方で、前田利長や加藤清正<や>・・・島津忠恒・・・には、人質を出させたり、領国にとどまらせたりしている。
 つまり、のちに「西軍」として自分に敵対した者よりも、「東軍」として味方することになった者たちのほうを警戒してい<た>のだ。・・・
 景勝は家康の使者に、7月中に上洛すると返答していた。
 だが、豊臣政権の要求は「すぐに上洛せよ」というものであり、受け入れられなかった。
 すると家康は会津攻めを布告し、武力を背景に上洛を強要してきた。
 こうした威圧的な態度によって面目をつぶされた景勝は、逆に上洛することができなくなってしまい、しかたなく「上方勢」すなわち豊臣政権と戦う決意を固めたのである。・・・」(56、61)

⇒高橋もまた、典型的なぶつ切り出たとこ勝負史観で「勝負」していますが、関ヶ原の戦いも日蓮主義という補助線でもって説明できそうな気がしてきました。
 というのも、この戦いの名目上のか実際のかはともかくとして、西軍の総大将になるのは毛利輝元であるところ、輝元が日蓮主義者であった可能性が高いことを押さえておきましょう。↓

 「毛利輝元<(1553~1625年)は、>・・・毛利隆元の嫡男、毛利元就の嫡孫として生まれ<、>母は内藤興盛の娘(大内義隆の養女)・尾崎局」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
だが、尾崎局(1527/1529~1572年)については、「元就の書状からは、<彼女>がただ隆元の正室というだけでなく、「御屋形様」(大内義隆)から賜ったものであるとの認識を元就が持っており、実質的に大内氏との意思疎通の架け橋となり得る立場であったことから丁重に扱われ、かつ信頼されていた・・・。・・・
 輝元誕生の翌年の防芸引分に始まり、厳島の戦い、防長経略、石見国への進出、尼子氏攻め等で断続的に出陣を繰り返したため吉田郡山城を留守にしがちの隆元に代わって、尾崎局が輝元へ<意>見する立場にあった。しかし、輝元は尾崎局の<意>見に従わないことが多かったためその養育に苦労しており、尾崎局が隆元に宛てた書状では「輝元は隆元の言う事には恐れて従うが、私が意見しても一向に聞き入れようとはしない。輝元の守役を務める国司元武にも輝元の機嫌を損ねることでもよくよく<意>見するように言っているがそちらも同様である。そのため、輝元に私と国司元武の言う事をよく聞くように言って頂きたい」との旨を述べている。
 永禄6年(1563年)8月4日に隆元が急死すると、より一層輝元の養育に心血を注いでおり、輝元が元服した永禄8年(1565年)以降に毛利氏の五奉行の一人である桂就宣に宛てた書状によると、弟の内藤隆春を通じて元就から輝元の養育について何事か伝えられたことに対して尾崎局は表面的には従いつつも「輝元の養育については私が油断なく申し聞かせますのでご安心ください」と述べて元就からの口出しを遠回しに断っており、父の隆元がいなくとも母である自分が責任をもって輝元を養育するという強い決意が窺われる。
 また、毛利元就は尾崎局を分国経営に参与させ、自身のことは「上様」「御隠居」といった通常の呼称ではなく、「ちいさま(じいさま)」と呼ばせていた。
 元亀2年(1571年)6月14日に元就が没した時に、<彼女が>輝元の叔父の吉川元春に輝元の後見を依頼した書状が現存しており、「頼れるのは叔父の元春・隆景だけ。親ともなり力になってほしい」と切々と訴える、母の真情が溢れる内容が綴られている。・・・
 法号は妙寿寺仁英妙寿・・・墓所は広島県安芸高田市の洞春寺跡。当初は菩提寺である妙寿寺が吉田郡山城内に建てられ、墓も寺内にあったが、後に毛利元就ら毛利一族と共に毛利氏一族墓所に移されている。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%B1%80
 ご存じのように、「日蓮宗系では、法華経信者は霊鷲山の浄土に生まれるとされるため、「戒名」ではなく「法号」と呼ぶ。男性へは「法」号、女性には「妙」号などが使われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%92%E5%90%8D
わけだが、例外がなきにしもあらず(典拠省略)なので、念には念を入れてもう少し調べてみた。
 上出の吉田郡山城のウィペディアには、「満願寺<は、>・・・毛利氏の郡山入部前からあったとされ<る>」が、その宗旨は出て来ないところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%83%A1%E5%B1%B1%E5%9F%8E
この寺そのものは出て来ないけれど、全国の満願寺中に日蓮宗系ではないのは一寺しか登場しない一方、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E9%A1%98%E5%AF%BA
わざわざ尾崎局を弔うために建てられたところの、かつて存在した妙寿寺の方も、そのものズバリはないけれど、ネット上でヒットする妙寿寺は日蓮宗系のものばかりだった。
 また、祖母で元就の正室の妙玖(みょうく。1499~1546年)の妙玖は、法名の妙玖寺殿成室玖公大姉を流用していて本名は不詳である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E7%8E%96
ところ、日蓮宗信徒であったことになる。

 以上から、妙玖を祖母・・但し、この祖母が亡くなってから輝元は生まれている・・、そして尾崎局を母親、とし、かつ、もっぱらこの母親によって育て上げられたと見てよい輝元が、母親を相当手こずらせた子供であったとはいえ、筋金入りの日蓮主義者になっていた可能性が極めて大きい、と言えそうです。

(続く)