太田述正コラム#15352(2025.12.4)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その5)>(2026.2.28公開)

なお、輝元の、その祖母を母とするところの、2人の叔父である、吉川元春(1530~1586年)の正室
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%BA%84%E5%B1%80
も、小早川隆景(1533~1597年)の正室
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%8F%E7%94%B0%E5%A4%A7%E6%96%B9
も、日蓮宗信徒であり、しかも「元春<は、>元就に無断で・・・不美人であったと<される>・・・新庄局との婚姻の申し出を・・・<彼女が日蓮宗信徒であるからこそ(?。太田)>し<た>」という逸話さえあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5 前掲
 ということは、関が原の戦いは、(その時にはこの2人の伯父はどちらも既に鬼籍に入っていて、後で述べるように、その跡継ぎ達が問題児だったわけですが、)マクロ的には日蓮主義者と反日蓮主義者の戦いであった可能性が高い、と、まずは考えてしかるべきでしょう。(太田)

 「・・・上方にいた毛利輝元・・・と吉川広家・・・は、領国に下国するように家康に命じられていた。
 輝元はそのまま広島にとどまり、広家は人数を率いて再び上方へ戻り大坂の留守居にあたるように定められた。
 毛利輝元が広島に帰ることを知った近衛<前久>は6月13日、そのことを島津<義弘>に伝えて、伏見・大坂の状況を尋ねた。
 先日、毛利輝元が広島へ下るとのことで、挨拶をしにきました。きのう(6月12日)聞いたところによると、家康は西国に領地をもつ者たち全員に下国を命じたそうですね。あなたは伏見の留守を命じられたとのことですが、その準備は進んでいますか。状況を聞かせてください。
 家康が毛利輝元に下国を命じたのは、九州にいる加藤清正を監視させるためであった。
 一方で、輝元は家康の強引なやりかたに反感をおぼえていた。
 6月15日、上方を出発する直前の輝元が、国元の家臣に送った書状は以下のとおり。」(65~66)

⇒輝元が、挙兵の意思を固めていたとすれば、この時点で家臣に自身のホンネを伝えるわけがありません。(太田)

 家康の指示によると、「わたくしは広島に在国し、秀元<(注39)>は伏見に残すように、そうして九州と上方の両方を監視するように」とのことです。・・・

 (注39)1579~1650年。「毛利元就の四男・穂井田元清の次男として・・・生まれる。母は来島村上水軍の当主である村上通康の娘<。>・・・
 <だから、元清は、有名な元就の「三子教訓状」の正室の子である、隆元、元春、隆景の三子には入らない。(太田)>
 文禄4年(1595年)・・・2月28日に秀吉の養女となった豊臣秀長の娘である大善院との婚儀を広島で執り行った。・・・10月18日に輝元に実子の松寿丸(後の毛利秀就)が誕生。天正20年(1592年)に秀元が秀吉から継嗣と認められた際に、輝元に実子が生まれた場合は実子が継嗣となって、秀元は別家を立てる取り決めとなっていたことから、松寿丸(秀就)の誕生により秀元の立場も微妙なものとなった。・・・
 <慶長3年(1598年)8月18日秀吉死去。>慶長4年(1599年)6月、秀元は独立大名として別家を創設し、長門国(一円知行)・周防国吉敷郡、合計約18万石を分知された。・・・
 <この間、秀元は、文禄、慶長の役に参軍している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E7%A7%80%E5%85%83

⇒この部分は本当でしょう。
 なお、「注39」から、実舅の豊臣秀長もその子で正室の大善院も日蓮宗信徒ではないけれど、秀吉に大恩のあった毛利秀元が日蓮主義者になっていたことは間違いないでしょう。(太田)

(続く)