太田述正コラム#15354(2025.12.5)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その6)>(2026.3.1公開)

 「・・・7月18日、東山道(中山道)を東へ向かっていた稲葉通孝(美濃中山5000石の領主)は、奉行の増田長盛・長束正家・前田玄以がつかわした使者から、領国である美濃へ帰るように命じる書状を受け取った・・・
 会津攻めに参加する領主たちへの家康からの指示は、彼ら3人の奉行を通じてなされていた。
 しかしこのとき、家康は稲葉通孝に帰国を命じていない。
 そのことを知らない通孝は、奉行衆からの指示にしたがって美濃へ帰ってしまった。
 どうやら増田・長束・前田の三奉行は、家康にしたがって東下した諸将に、「上杉景勝は異議なく上洛することとなった」と、偽の情報を流したようだ。
 三奉行の指示にしたがって領地に戻った領主は、ほかにも何人かいた。・・・

⇒かくも早い時期から反家康的行為に荷担したにもかかわらず、前田玄以だけは、関ケ原の戦いの後、何の咎めも受けていません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%8E%84%E4%BB%A5
 (戦いに参加する一方で、管理下にあった豊臣家蔵入地を西軍のために役立てず家康に密書まで送っていた表裏者の増田長盛は自害させられ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B
一貫して西軍として戦った長束正家ももちろん切腹させられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6 
というのに・・。)
 玄以は家康の積極的協力者であったと見て間違いないでしょう。(太田)

 「・・・7月19日の午後4時ごろ、江戸にいた家康の側近・永井直勝<(注40)>は、大坂にいる増田長盛から、急ぎの書状を受けとった。

 (注40)1563~1626年。子孫に・・・遠山景元<(遠山の金さん)や、>・・・作家の永井荷風や三島由紀夫、狂言師の野村萬斎などがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E7%9B%B4%E5%8B%9D

 書状の日付は7月12日であり、その内容は以下のとおりであった。
 大谷吉継は7月10日から体調を崩して、垂井で養生しています。石田三成は会津への出陣を拒否しているという噂です。・・・
 しかし、永井直勝はこれを読んで不審に思い、書状を家康に見せた。
 すると、家康は「この書状の写しをとって、宇都宮にいる者たちのもとへ遅れ」と指示したのだった・・・。」(76~79)

⇒これは、自分の謀略に三成が見事に踊らされたと見たうれしさを嚙み殺しつつ、豊臣恩顧の反三成勢に、三成が家康に叛旗を翻すであろうとの認識を与えるためにとった措置でしょう。(太田)

(続く)