太田述正コラム#15356(2025.12.6)
<高橋陽介『シン・関ヶ原』を読む(その7)>(2026.3.2公開)

 「・・・このとき、大谷吉嗣はすでに、「家康を豊臣政権から排除する」という三奉行らの計画に加わっていた。・・・
 この書状と同じ日付の7月12日に、増田長盛は長束正家・前田玄以と連署で、広島にいた毛利輝元にも書状を送り、上洛を要請している。・・・
 この書状は7月15日に広島の毛利輝元に届いている。・・・
 <要するに、>家康に叛き、上方で反乱を起こしたのは石田三成ではなく、増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行であった。
 そして、・・・諸将にクーデターに参加するよう、おもに<安国寺>恵瓊<(注41)>を通じて呼びかけたのは、毛利輝元であった。・・・

 (注41)1537~1600年。「出自が安芸武田氏の一族<。>・・・武将・大名。臨済宗の僧であり、毛利氏の外交僧でもある。・・・
 天正元年(1573年)7月、織田信長によって京都を追放された義昭はいったん枇杷庄(現京都府城陽市)に退いたが、本願寺顕如らの仲介もあり、三好義継の拠る若江城へ移り、11月5日には和泉国の堺に移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この会談には、恵瓊も当主の毛利輝元の命を受け、毛利氏の使者として参加した。・・・
 <その年の>12月12日付・・・書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の転落と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予想し、結果的にそれが的中したことで恵瓊の慧眼を示す逸話としてよく引き合いに出される。・・・
 天正4年(1576年)2月、足利義昭が備後国鞆に移ってきたあとも、恵瓊は毛利家中において、宇喜多直家と断交し、織田信長と結ぶべきと主張していたが受け入れられなかった・・・。
 天正10年(1582年)5月、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた(備中高松城の戦い)最中、6月2日に本能寺の変が起き、織田信長が横死した。このとき、秀吉はその事実を隠して、毛利氏に割譲を要求していた備中・備後・美作・伯耆・出雲を、高松城主・清水宗治の切腹を条件に備中・美作・伯耆とする和睦案を提示し、恵瓊はその和睦を取りまとめた。
 毛利氏に変報が伝わった後、同年7月に講和交渉が再開した際、恵瓊は「和睦が成らず毛利氏が滅ぼされた時には、小早川秀包・吉川広家を秀吉の家臣に取り立ててほしい」とも願い出ている。結局、両名を人質として出すことと引き換えに、毛利氏の領国は認められた。恵瓊は秀吉がこれから躍進することを予測して、進んで和睦を取りまとめたとされ、彼の信任を得た。・・・
 天正13年(1585年)1月、恵瓊は毛利氏が秀吉に正式に臣従する際の交渉を務めて、秀吉から賞賛された。このころすでに秀吉側近となっていた恵瓊・・・
 朝鮮出兵において、恵瓊は小早川隆景率いる六番隊として渡海し、・・・攻略を担当<したほか、>占領地の支配も行った。・・・
 恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、・・・隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ。恵瓊の危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した。・・・
 石田三成・小西行長と共に梟首に処せられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A

⇒朝山日乗は、「尼子氏に仕え・・・ていたが、主君に背いて毛利氏のもとに逃れ<、>・・・毛利氏に気に入られ、小さな僧院を建立し」たところの、毛利氏と縁の深い人物である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
ところ、恵瓊は、この日乗との交友を通じて、信長も秀吉も日蓮主義者であることを知らされるとともに、自身も日蓮主義者になった、と、私は見ており、その上で、信長流日蓮主義よりも秀吉流日蓮主義の方が筋であること、そういったことも含めて、信長より秀吉の方が器量が上であるという認識を持つに至ったのではないでしょうか。
 その上でですが、唐入りに参加もしていて、かつ、慶長4年(1599年)閏3月の七将襲撃事件の調停にも関与していた恵瓊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90
が、石田三成や小西行長に西軍への参加を呼びかける筈がありません。
 もとより、これらについては輝元も同じ(典拠省略)であり、彼が恵瓊にそんなことを指示するわけもまたありえません。(太田)

 5月7日、家康に「上方を離れないように」と意見したときには、・・・三奉行は、・・・まだ家康を政権から排除しようとはしていなかったと思われる。・・・
 6月16日に家康が大坂を出発する以前には、挙兵は不可能だ。
 出陣した家康が、できるだけ上方を離れ、かつ、東海道の諸将が、まだ領地から離れていないときでなければならない。
 そこへ7月12日、大谷吉継が説得に成功し、石田三成が計画に参加する意思を明らかにしたとの報が入った。
 ここでようやく三奉行は挙兵成功の見通しを立て、毛利輝元を広島から呼びよせ、東海道の諸将へ帰国を指示したのである。」(79~80、82、84)

⇒首を傾げてしまいますが、ここは、先に進みましょう。(太田)

(続く)