太田述正コラム#15358(2025.12.7)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その1)>(2026.3.3公開)

1 始めに

 お気付きのように、関ケ原の戦いもまた、日蓮主義の観点から説明ができそうな感触が得られたわけですが、日蓮主義勢力のうちの相当部分が反日蓮主義者たる家康を戴く東軍側にその主力として荷担し、西軍内にも東軍内応者がいたことから、西軍が負けるべくして負けてしまったところ、そんな不条理なことが起こってしまった理由を解明するのは一筋縄ではいきそうもないことから、表記シリーズを挟むことにしました。
 笠谷和比古(1949年~)は、何度も太田コラムで取り上げてきているけれど、今まで紹介したことがなかったところ、京大文(史学)卒、同大院博士課程単位取得退学、国文学研究資料館史料館助手、京大博士(文学)、国際日本文化研究センター助教授、教授、名誉教授、帝塚山大教授、大坂学院大教授、同左退職、この間、「1988年『主君「押込」の構造』でサントリー学芸賞を受賞」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%A0%E8%B0%B7%E5%92%8C%E6%AF%94%E5%8F%A4
という人物です。

2 『論争 大坂の陣』を読む

 「・・・関ヶ原合戦における東軍の勝利は、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に大きく依存したものであり、・・・東軍の前線に配備された約4万の部隊の8割方は、・・・豊臣系武将のそれであり、徳川系の部隊は井伊直政と松平忠吉の2武将が率いた約6000余のそれでしかなかった・・・戦後の論功行賞においても西軍側から没収した領地石高632万石余の8割強にあたる520万石余が豊臣系武将たちに恩賞として配分され、かれらは大身の国持大名となって京都以西の西国方面に広く分布することとなった。・・・
 ところがこの領地配置には、<それ>と並んで、いやそれ以上に重要な事実が認められる。
 それは京都以西の西国方面は豊臣系国持大名が多数を占めるのみならず、中小の大名までを含めて、徳川系の大名が皆無であるという事実である。・・・
 京都以西に・・・徳川幕府の直轄領はかなりの数に上る・・・とするものもある。・・・
 しかしそれは、あくまでも代官所支配という形であり、行政上の命令伝達という点では周辺の地域に対する影響力を及ぼすことはできるけれども、叛乱や武力衝突といった軍事問題に対しては非力である。
 事前の抑止効果に至っては、それを期待することはゼロに近いであろう。

⇒各代官が、どれだけの部下を授けられていたか、等の具体的な説明がこの種の議論には不可欠でしょう。↓
 「代官の身分は150俵と旗本としては最下層に属するが、身分の割には支配地域、権限が大きかった。後述の通り代官所に勤務する人員の数は限られていたため、代官の仕事は非常に多忙だった。
 通常、代官支配地は数万石位を単位に編成される。代官は支配所に陣屋(代官所)を設置し、統治にあたる。代官の配下には10名程度の手付(幕府の御家人)と数名の手代(現地採用の抱え席)が置かれ、代官を補佐した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E5%AE%98 (太田)

 また・・・中小規模の大名の混在国には、国奉行<(注1)>と呼ばれる制度が設置されていたことも知られている。

 (注1)「関ヶ原の戦いの後、家康は西日本各地に、国持大名の存在しない中小の大名領や公儀領(蔵入地)を管轄するため、国奉行を設置した。
 国奉行の例には片桐且元(摂津国、河内国、和泉国)、大久保長安(大和国、美濃国)、小堀遠州(備中国)がいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%A5%89%E8%A1%8C

 しかしながら、それは専ら錯綜する領地領有関係を整序し、年貢収納を円滑化ならしめるとともに、一国規模での治水や城普請の遂行を目的として設けられたものである。
 それゆえに、・・・代官と同様に行政上の執行機能という点では有効であるけれど、軍事面では無力である。
 そしてその国奉行ですら、備中国までであって、その先にその存在を認めることは出来ない。・・・」(3、18、22~24)

(続く)