太田述正コラム#15360(2025.12.8)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その2)>(2026.3.4公開)
「豊臣家と秀頼は・・・関ヶ原合戦ののち、・・・天下人<たる>・・・家康<の下、>・・・摂津・河内・和泉・三ヶ国65万石を領有する一大名に転落したと位置づけられてきた。
だが、この認識は改められなければならない。
その理由は以下の通りである。
慶長5(1600)年9月の関ヶ原合戦ののち家康は旧来の居所であった大坂城西の丸の殿舎に入り、本丸の淀殿・秀頼と対峙する姿であったが、翌10月になると双方から歩み寄る形で、同城本丸御殿において両者の間で和睦の盃事を行うこととなった。・・・
このとき盃の廻る順序は、淀殿→家康→秀頼という並びとなっており、最初の盃は淀殿であった。・・・
豊臣家側が依然として家康に対して上位にあることがわかる。
家康が盃を飲み干したあと、淀殿はそれを秀頼に廻すように促したのであるが、家康はこれを遠慮して固辞した。
しかし、淀殿の強い勧めによって秀吉に廻された・・・。・・・
・・・不思議なのは、・・・関ヶ原合戦後・・・あれだけ大規模な諸大名の領地配分が行われたにもかかわらず、それに随伴するはずの領地の領有を保証する領知朱印状が見あたらないことである。・・・
それはその時点における家康には、領知朱印状を発給する資格ないし権限は無かったこと、発給するとすれば、それは秀頼の名で出すしかなかったことを強く示唆しているということである。
これは後<の>・・・慶長16(1611)年の家康と秀頼による・・・二条城会見において、秀頼が家康と徳川の政治的主導に服する旨を表明した後になって、徳川幕府から諸大名に向けて領知朱印状を発給する方向で、領地石高の明細を書き上げる旨の通達がなされていることによっても裏付けられる。
しかしその朱印状は、家康の生前には発給されることはなかったのであるが。・・・
<そもそも、>豊臣家と秀頼は、摂津・河内・和泉三ヶ国65万石の一大名に転落したとされてきたが、それは誤りで、秀吉の家臣団である「大坂衆」の知行地は備中国、丹波国、伊勢国、近江国など西国方面の多数の国に散在していることが明らかになっている。 ・・・
慶長8(1603)年2月<~>・・・三月・・・<の>家康の征夷大将軍任官<とそれに伴う諸式>・・・は単なる制度的なお飾りではなく、豊臣公儀体制下の大老としての地位を脱して、自らを頂点とする別の支配体制、徳川家による永続的な支配体制を構築することに正当性(レジチマシー)を付与してくれるものこそ征夷大将軍という名目に他ならなかった。
このプロセスにおいて天皇と朝廷の果たした・・・政治的な役割には計り知れないほどに巨大なものがあったということである。・・・」(25~27、29~30、34、37)
⇒こういう指摘をするのであれば、笠谷は、どうして「天皇と朝廷」がかかる「役割」を果すことにしたのか、を説明してくれる必要があります。
後陽成天皇、や、「朝廷」の事実上の筆頭者たる近衛前久・信尹親子ら、が、どうしてかかる「役割」を果そうと考えたのか、をです。
天皇に関して言えば、「慶長6年(1601年)には禁裏御料の増額と山城国内への移転が行われ、禁裏御料は1万石となった。またこの年には天正6年以来中絶していた年中行事としての叙位が後陽成天皇の意思によって再開されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
程度の餌に食いついた、とは、「家康は天皇と豊臣家の接近を防ぐため、奥平信昌を京都所司代に任じて天皇の動きを監視した。慶長6年3月5日(1601年4月7日)、良仁親王を強引に仁和寺で出家させて第三皇子政仁親王を儲君として立てた。」(上掲)という仕打ちを受けている以上、考えにくいのですが・・。(太田)
(続く)