太田述正コラム#15362(2025.12.9)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その3)>(2026.3.5公開)

 「注意しなければならないことは、家康は秀頼の存在を否定ないし抹殺して征夷大将軍になったのではなく、秀頼の支配体制から離脱して新たな政治体制を構築したということである。
 すなわち、秀頼と豊臣家を頂点とする従来の豊臣公儀体制は存続したままに、家康はそれと別個に新たな政治体制である徳川公儀体制を設けたということであり、そこから二つの政治体制が併存することになっている。
 故に、この政治体制を二重公儀体制と規定するのである。・・・

⇒秀頼が成人になっておらず、そのこともあって、関白になっていない以上、豊臣体制は、秀吉の「遺言」に基づいて家康の後見の下にあるところの、徳川体制の一部になった、ということであって、この時点の政治体制を二重公儀体制とは必ずしも言えないでしょう。(太田)

 豊臣と徳川、両者の棲み分けによる共存共栄の途こそ、家康の望むところであり、徳川の女子である千姫の秀頼の下への入輿<(じゅよ)>は、そのシンボリックな表現であった。
 徳川女子を秀頼に配偶するというのは、死の床にあった秀吉のいまわの時における家康に対する懇願でもあった。・・・」(49、51)

⇒「岳父は、・・・妻の父親を指す敬称<として、>・・・室町時代頃から使われるようになり、武家社会で広く用いられてきました<が、>・・・<そ>の語源は<支那>の故事に由来します。唐の時代、玄宗皇帝が泰山で封禅の儀式を行う際、宰相の張説が責任者に任命されました。その時、張説の娘婿が異例の出世を遂げたことから、人々は「泰山(岳)の力によるものだ」と言い、これが「岳父」の呼称の始まりとされています。また、泰山には「丈人峰」という峰があり、これが妻の父を意味する「丈人」と結びついたという説もあります。・・・豊臣秀吉と浅野長政の関係<は>興味深<いものがあり>、長政<が、>秀吉の正室・ねね<・・長政の養女に過ぎない(!)(太田)・・の<養>父として<秀吉の>「岳父」とな<っていた>・・・」
https://www.word-dictionary.jp/posts/5196/
からこそである、としか考えられないのですが、「此度の<文禄の>役に中国西国の若者どもはみな彼地にをし渡り。殿下今また北国奥方の人衆を召具して渡海あらば。国中いよいよ人少に成なん。その隙を伺ひ異城より責来るか。また国中に一揆起らんに。徳川殿一人残りとゞまらせ給ひ。いかでこれを志づめたまふ事を得ん。さらばこそ渡御あらんとは宣ふらめ。長政がごときも同じ心がまへにて侍れ。・・・惣て殿下近比の様あやしげにおはするは。野狐などが御心に入替しならんと申せば。関白いよいよいかられ。やあ弾正。狐が附たるとは何事ぞとあれば。弾正いさゝか恐るゝけしきなく。抑応仁このかた数百年乱れはてたる世の中。いま漸く静謐に帰し。万年太平の化に浴せんとするに及び。罪もなき朝鮮を征伐せられ。あまねく国財を費し人民を苦しめ給ふは何事ぞ。諺に人をとるとう亀が人にとらるゝと申譬のことく。今朝鮮をとらむとせらるゝ内に。いかなる騒乱のいできて。日本を他国の手に入んも計り難し。かくまで思慮のなき殿下にてはましまさゞりしを。いかでかくはおはするぞ。さるゆへに狐の入替りしとは申侍れといへば。・・・関白事の理非はともあれ。主に無礼をいふことやあるとて。已に腰刀に手をかけ給へば。織田常真前田利家などおしふさがり。弾正こそ立といへども退かず。某年老て惜くも侍らぬ命を。めされむにはめされよとて座を立ねば。 君徳永有馬の両法印に命じて。長政を引立て次の間につれ行て事済けるとなり。秀吉も後には悔思ひけるにや。みづから渡海の儀はやみけるとぞ。」(『東照宮御実紀附録』巻七「浅野長政停秀吉之外征」)
https://mag.japaaan.com/archives/207563/3
などという、部下による上司に対する反逆的言辞、を弄しても、命をとられるどころか、結果的に、秀吉から何の咎も受けていないことにも鑑みれば、家康は、秀吉の「遺言」を活用して孫娘を秀頼に娶せることによって、秀頼成人後は、今度はもっぱら(部下ではないだけでなく、官位も上であるところの)岳祖父としての立場で、豊臣体制を徳川公儀体制の一部に止め置くことができるし、それが先例となって、(自分の存命中は自分自身の官位が高いので別として、)自分の後継たる将軍達を秀頼の後継達よりも常に官位を上に置き続けることによって、かかる徳川公儀体制を維持できると踏んだ、というのが、私の見方です。(太田)

(続く)