太田述正コラム#15366(2025.12.11)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その5)>(2026.3.7公開)

 「・・・豊臣秀吉が内大臣の地位から関白に就くという例を開き、続く秀次もまた内大臣から関白になったことから、豊臣の人間は内大臣から関白に就任しうるというパターンが出来上がっていた。
 それでよかったはずなのであるが、関白の地位が関ヶ原合戦ののち九条兼孝に渡ったあとは、藤原摂関家の人々の間でこの関白の地位が、受け渡される状態が続いていた。
 そのような状態の下で、秀頼が関白の地位に就くためには、内大臣のままでは役不足の感は免れず、秀頼の右大臣昇進には、関白就任のための支援措置としての意味があったということである。

⇒それまでの「状態」から変わった以上、秀頼は関白にはなれないという意味もなきにしもあらずでしょう。
 この時、秀頼がまだ11歳であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%A0%BC
ことから関白の任に堪えなかったから、というのであれば、右大臣の任にだって堪えないはずですからね。(太田)

 もとよりこれも、家康の配慮に基づくものと考えられる。
 この家康の配慮は、秀忠の将軍継承に対するバランス措置として理解しうる。
 秀頼の関白任官の条件をより強化する措置としてである。
 そして秀忠の将軍継承を祝賀するために京都・伏見に参集した諸大名は、その後、大坂城に赴いて秀頼の右大臣昇進への祝賀を行っていた
 もとより家康の指図によることであったろう。・・・
 なお、これに関連して<だが、>・・・関白職は関ヶ原合戦後には藤原五摂家側に<戻され>たのであるが、・・・あたかもラグビーのボール回しのごとき、目まぐるしいまでの関白職の受け渡し<が行われた>。・・・
 <こ>れは・・・非常に<秀頼の>関白就任の現実性が高いものと人々が認識していたことを裏付けることになるのではないか。・・・
 関白は一旦就任した実績があると、離任したのちも「前関白」として現在関白に準じた待遇が得られ、未就任者に比してはるかに高い席次と礼遇が約束されてい<たからだ・・・。>・・・
 <実際、>慶長19(1614)年の方広寺大仏供養の儀式参列を目的として、秀頼の家臣である大坂衆14名が従五位下に叙任せられる諸大夫成りを果たしているが、この官位執奏は<家康によってではなく、>秀頼によってなされている・・・。」(71~77)
 <もう一点。>
 天下普請の代表は、慶長11(1606)年から始まる江戸城のそれである<が、>・・・顕著なことは、普請役に動員されている大名の顔ぶれ<の中に>・・・豊臣秀頼の名<が>見えないという事実である。
 もう一人重要大名として島津家久(忠恒)の名が見えないが、島津の場合は徳川秀忠の将軍成りを祝う琉球王の使者である慶賀使<(注2)>を江戸まで無事に送り届けるという重大任務があり、それで普請役は免除されていると考えられる。・・・」(71、73~78)

 (注2)「江戸上り(えどのぼり)とは、江戸幕府へ派遣された琉球国中山王府の慶賀使節のこと。琉球使節(りゅうきゅうしせつ)とも呼ばれる。・・・
 薩摩の琉球侵攻後の1634年から、幕末の1850年まで間に18回行われた。これらには、琉球国王即位の際に派遣される謝恩使と、幕府将軍襲職の際に派遣される慶賀使とがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%8A%E3%82%8A

⇒「注2」に照らすと、江戸城普請に頃には琉球使節は来ていないはずなので、ここで笠谷が何を言っているのか意味不明です。(太田)

(続く)