太田述正コラム#15368(2025.12.12)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その6)>(2026.3.8公開)
「この全国の大名を総動員して行われた江戸城普請であったが、豊臣秀頼はその動員の対象となっていないのみならず、逆に秀頼の家臣二名(水原吉勝<(注3)>と伏屋貞元<(注4)>が公儀普請奉行、すなわち工事監督官の立場でこの大普請に臨んでいた。
(注3)水原吉一(よしかず。?~1615年)。「1,000石で豊臣秀頼に仕えており、慶長11年(1606年)、江戸城普請の際には出張して奉行を務め、慶長16年(1611年)の春には禁裏の普請を担当した。秀頼のもとでは奉行衆であったようだ。
大坂の陣における戦功の有無はわからないが、当時は大坂町奉行を務めていた。元和元年(1615年)5月8日に大坂城が落城すると逃亡して京都市中に潜伏していたが、5月14日に発見され、藤堂高虎が派遣した兵によって討たれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%8E%9F%E5%90%89%E4%B8%80
(注4)伏屋飛騨守/伏屋直元(?~1615年)。「慶長16年(1611年)に江戸幕府が禁裏造営を大名・小名に課した際・・・には、「大坂衆」(豊臣秀頼家臣)として伏屋飛騨守の名が確認でき、1100石を知行していたことがわかる。
・・・片桐且元の大坂城退去後、大野治長と布施屋飛騨守が秀頼の命を奉じ、片桐且元の領地の没収の任務に当たった・・・。このことから、布施屋(伏屋)飛騨守は豊臣政権(豊臣公儀)において重臣クラスの人物であったという見解がある。
布施屋(伏屋)飛騨守は、慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際、上本町において森可春(森可政の子)に討たれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E5%B1%8B%E6%B0%8F
この時の公儀普請奉行は8名で、4名は新将軍秀忠の家臣、2名は駿府の大御所家康の家臣、そして2名が秀頼の家臣である水原・伏屋の両名であった。・・・
<これ>は極めて重大であり、豊臣秀頼は徳川将軍による普請課役を免れているにとどまらず、将軍の居城である江戸城の普請に際して、自己の家臣を公儀普請奉行として送り込むことによって、むしろ江戸城普請を主宰する側の立場で、これに臨んでいたということである。・・・
⇒果たしてそうでしょうか。
一家の家長たる家康が子である秀忠の住居の建設にあたって、建設監督を、自身と息子と息子の婿の三者で行ったということであり、家康と秀頼の上下関係は明確では?(太田)
以上述べてきたところを小括するに、関ヶ原合戦後の政治体制については、京都を境とした東国と西国とに統治対象地域を分有する徳川公儀と豊臣公儀とが併存する二重公儀体制として理解することが最も適切であると考えている。・・・
⇒ですから、私は、全くそうは思いません。(太田)
このように・・・設定された西国の豊臣勢力圏に対する統治の方法を問うならば、・・・豊臣秀頼に、それが委ねられることは自明なことであったろう。
⇒??(太田)
ただ秀頼は幼く、関ヶ原合戦の慶長5(1600)年では8歳の幼子であったこと、またその官<職>は同8年でも正二位内大臣であって関白には未就任ということから、西国全体に対する統治権を十全に行使するには不十分であり、個別の行政実務上の不足分は「五大老時代」と等しく家康の補佐を受けなければならなかった。」(78、81、83、85)
⇒秀頼は、内大臣であれ、右大臣であれ、1602年から従一位の家康よりも官位がずっと低いままだったのですから、彼が、関白という(摂政とともに)臣下が就きうる最高の職位
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD
に就いて、官位において家康と少なくとも同等にならない限り、官位が上の大舅として、徳川家の家長たる家康は、徳川家の準メンバーである秀頼を「補佐」する権限・・事実上秀頼に指示する権限・・を保持し続けるつもりであった、と、私は考えているわけです。(太田)
(続く)