太田述正コラム#15376(2025.12.16)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その7)>(2026.3.12公開)
「関ヶ原合戦後における国制を、豊臣・徳川の二重公儀体制と規定する根拠となる事実や事象についての説明・・・の要点・・・を掲げる。
1 豊臣秀頼に対する諸大名の伺候の礼。幕府成立以後も島津、上杉といった旧族外様大名までが、大坂城の秀頼の下に伺候している。
⇒旧主家たる豊臣家に敬意を示しつつ旧交を温めているだけでは?(太田)
2 朝廷から派遣される年頭慶賀の勅使は、徳川ではなく大坂城の秀頼の下へ赴いている。
⇒家康ないし秀忠から、江戸城の秀忠の下へ赴けとの要請がなかった以上は、大坂城に赴かざるを得なかっただけでは?(太田)
3 慶長期の伊勢国絵図の控え図には村ごとに大名・旗本らの領主名が記入されているが、秀頼の領分においては豊臣秀頼の名ではなく、秀頼の家臣(「大坂衆」)の名が記載されている。秀頼は諸大名の上に立つ存在である。
⇒そもそも、「大坂三人衆」、「大坂五人衆」、「大坂七人衆」という言葉はあるけれど、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E4%BA%94%E4%BA%BA%E8%A1%86
「大坂衆」という言葉がある・・この伊勢図絵図以外でも使用例がある・・のかどうかが問題です。
単純な話、秀頼の元服前ならば、淀殿が豊臣家の当主であったわけであり、秀頼の名前を書くか淀殿の名前を書くか、考えあぐねた絵図作成者が、苦し紛れに「大坂衆」という言葉をでっちあげて記したのかもしれませんよ。
なお、この絵図で、家康の駿府領や幕府直轄領をどのように表示していたのかも気になります。(太田)
4 秀頼の直属家臣である大坂衆の知行地は、摂津・河内・和泉国を越えて、近江・丹波・伊勢。備中国など西国全体にわたって広域分布している。従って、豊臣秀頼の領有石高は、それら家臣の知行石高を含めて摂河泉65万石を大きく超えることになる。
なお大坂衆の知行地は西国に限定されることなく、東国にも散在している。
このような直轄家臣団の知行地が、諸国に散在するといった存在形態は、通常の大名ではありえない。徳川幕府の直轄家臣団である旗本の知行形態と相似的である。
⇒家康が、徳川家の広義の一族となった豊臣家の家臣達の、秀吉当時の姿そのままだったところの、諸領地に手を付けなかっただけでは?(太田)
5 秀頼に対して徳川幕府から大名普請役が賦課されることは皆無。
⇒コメント済み。(太田)
6 将軍の本城である江戸城普請に際して秀頼の家臣2名(水原石見守・伏屋飛騨守)が、将軍秀忠の家臣4名、大御所家康の家臣2名と並んで普請奉行、すなわち工事監督官として臨んでいる。秀頼は、西国大名に対して普請課役の執行を命じ、監督する立場であった。
⇒コメント済み。(太田)
7 豊臣家が各地の寺社の修復・造営を盛んに行っていたことは周知のところである。そしてそれについて、豊臣家が有している財力を削減させるための家康の深謀遠慮によるものとする理解が昔からなされてきた。
それは確かに一面の真実には違いない。しかしながら、京都の北野天満宮、伊勢神宮、出雲大社など、修復対象の寺社名刹が摂河泉を越えた地域にある場合には、豊臣家と秀頼の権威が広汎な地域に押し及ぶという政治的効果を見逃すことはできない。さらには、当該寺社を支配下に置く当該地の大名との連携が自ずから生じてくる。」(85~87)
⇒かかる修復・造営を、家康ないし秀忠が求めたのか、豊臣家の自発的意思で行われたのか、を、笠谷らの歴史学者はまず見極めた上で、前者であれば、その狙いは明らかだと言うべきでしょうし、後者であれば、その狙いを追究して欲しいものです。
話はそれからでしょう。(太田)
(続く)