太田述正コラム#15380(2025.12.18)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その9)>(2026.3.14公開)
「・・・家康は征夷大将軍に就任してからでも、全国の諸大名に対して領知朱印状を出すことも、全国法令を恒常的に発布することも、出来ていなかったのである。
・・・領知朱印状の不在の件<については、>・・・この二条城会見ののち同十八年になって、諸大名に対して領知朱印状の発給を目的として、検地を行って領内の石高を書き上げるべきことを通達し・・・た。
結局、家康存命のうちは領知朱印状の発給は見られなかったのであるが、この問題が慶長18年になって初めて登場してきたということは、秀頼が家康と徳川の政治主導に服する旨を表明した慶長16年の二条城会見以前においては、家康と徳川公儀は領知朱印状発給の権限を有していなかったことを裏付けることとなっている。・・・
カトリック陣営もプロテスタント陣営も、豊臣秀頼を正統なる皇帝の資格者と認識していた。
これは現皇帝家康を一時的な中継相続者と・・・見なしていたことを示していた。
それゆえに、秀頼が皇帝位に就く可能性のあることを織り込んで、対日関係を進める必要性を指摘するのであった。
⇒こんな話は、「可能性<が>あること」を踏まえ、リスクヘッジを彼らが行った、ということ以上でも以下でもないでしょう。(太田)
慶長13(1608)年に入ると、・・・豊臣と徳川との関係は・・・険悪なムードに包まれることとなる。
慶長13年6月、丹波国八上城主前田茂勝<(注5)>(豊臣奉行であった前田玄以の子)が発狂を理由として改易に処せられたのち、空き領地はしばらく領主不在の状態のままであったのだが、同年9月になって、その後釜として、常陸国笠間5万石の城主松平(松井)康重<(注6)>が5万石で同地に封ぜられた。
(注5)1582~1621年。「文禄4年(1595年)にキリシタンとなる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して、東軍方の細川幽斎が守る丹後国田辺城を攻め、開城の使者も務めた。その後、関ヶ原の戦いは西軍の敗北で終わるが、父・玄以が持つ朝廷とのパイプなどを考慮されて、戦後、父の所領・丹波亀山藩は安堵された。
慶長7年(1602年)、父・玄以が死去したために家督を継ぎ、丹波八上に移封され八上藩主となった。次第にキリスト教と距離を置き、教会にも通わなくなったとされる。藩政を省みずに放蕩に耽り、終には発狂したという。諫言する家臣・尾池清左衛門父子を始めとする多くの家臣を切腹させたため、慶長13年(1608年)6月16日、幕府から改易を申し渡され、出雲国松江藩主、堀尾忠晴に身柄を預けられた。改易後、自らのつまずきに気づくと、茂勝は司祭のもとを訪れ、自らの過ちを告白し、これまでの快楽とは縁を切り、堅実なキリシタンの婦人と暮らしたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E8%8C%82%E5%8B%9D
(注6)1568~1640年。「駿河国三枚橋城主松平康親の長男。・・・実は徳川家康の落胤とする説がある。生母は家康の侍女であり、家康の子を身籠ったまま康親に嫁いだとされる。後に子孫も家康の「康」を通字として用いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E9%87%8D
⇒茂勝の父の玄以(1539~1602年)は、「家康弾劾状の副状の責任者となっている。ただし、豊臣秀頼がいる大坂城の留守を預かった増田長盛と同じ立場であったが、長盛のように大坂城内にありながら徳川方に内通しているようなことはなく、長束正家のように石田・毛利方として軍事行動をすることもなく、秀頼の警護を大義として、豊臣家として中立の立場でいたとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E7%8E%84%E4%BB%A5
ということになっていますが、息子の茂勝が「軍事行動を」していながら、玄以、茂勝、両名ともお咎めなしだった以上、玄以も徳川方に内通していた、ということでしょう。(太田)
これは関ヶ原合戦後においてはじめて、徳川の譜代大名が京都から西の地域に封ぜられた事例となる。」(89、94)
(続く)