太田述正コラム#15388(2025.12.22)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その13)>(2026.3.18公開)

 「豊臣家<は>・・・<諸>大名<に>・・・助勢を依頼した<が、>・・・応じる者はいなかった。
 福島正則が、その大坂蔵屋敷に備蓄してある多量の米の借用を承諾し、毛利がその家臣・内藤元盛<(注10)>を佐野道可<(どうか)>と変名させて派遣したこと、熊本加藤家では老臣の加藤美作・同丹後らが武器・兵糧を大坂城内に搬入するなど、背後での支援工作はさまざまになされたものの、表立って味方につくことはなかった。

 (注10)1566~1615年。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E8%97%A4%E5%85%83%E7%9B%9B
「元盛が選ばれた背景には、実母が輝元の叔母で、養父にあたる内藤隆春が輝元の伯父であり、従兄弟にあたる輝元の代理になり得る立場にあったこと、当時の内藤氏が元盛の実兄・宍戸元続の仲介で主家から借財をしていたことが挙げられる。また、元盛の大坂城入城計画に関しては、輝元や秀元、および当主の秀就、元続のみで練られ、実行に移されたとされる。毛利家中の慎重派で親徳川派の吉川広家と福原広俊はこの計画を知らされておらず、後にこれを聞いて非難している。・・・
 輝元は徳川方の勝利がほぼ確実であると考えつつも、豊臣方が勝利する可能性も皆無ではないと考え、その勝利の際に毛利氏の復権を図る必要があった。そのため、豊臣方が勝利した際の保険として、輝元は元盛を利用したと考えられている。
 だが、これが失敗に終わると、輝元は幕府の追及を恐れ、・・・厳しい捜索により・・・元盛<を>潜伏していた京都の郊外で捕縛<し、>・・・自刃<させ、その後、>・・・元盛の2人の息子を粛清し・・・た。 内藤氏は輝元の生母・尾崎局の実家であり、また元々は大内氏の重臣であったことから、毛利氏よりも格上の存在であった。そのため、この事件は・・・、旧有力国人領主層を排除・屈服させることにより、毛利氏が旧国人領主層よりも上位の存在であることや、輝元と秀就の地位を確立するために<結果的に>利用されたと考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E9%81%93%E5%8F%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 茶人として名高い古田織部(重然)<(注11)>が非力ながら、京都で二条城を焼き討ちして家康を討とうと企てたのが、大名で大坂方に加わったほとんど唯一の例外であった。」(138)

 (注11)「大坂夏の陣の慶長20年(1615年)3月30日、織部の茶堂である木村宗喜や薩摩島津氏の連歌師が豊臣氏に内通して京への放火を企んだ罪で京都所司代板倉勝重に捕らえられた。「豊臣恩顧」の大名・織部も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に息子たちと共に切腹を命じられた。織部はこれに際し、一言も釈明しなかったといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
 なお、織部は、日蓮宗信徒ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E8%81%96%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)

⇒この織部に「茶の湯を・・・学んだ茶人でもある」大野治長(上掲)は、「秀吉の馬廻りを務める旧知の間柄で、大坂の陣で・・・真田信繁・・・を招いたの<は、彼>だったとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E6%B2%BB%E9%95%B7
ところ、この治長も信繁も日蓮宗信徒ではありませんし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
この3人いずれも、赴いたのは名護屋までで朝鮮には渡らなかったことでも共通しており、単に成り行きでそうなった可能性ももちろんあるけれど、いずれも日蓮主義者ではなかったために渡海の意欲が高くなかった可能性が否定できません。
 この後も注意していきたいと思いますが、淀殿と秀頼の周りに日蓮宗信徒も日蓮主義者も少な過ぎる感が否めません。(太田)

(続く)