太田述正コラム#15390(2025.12.23)
<笠谷和比古『論争 大坂の陣』を読む(その14)>(2026.3.19公開)
[秀吉の家康を使い倒す戦略?]
ここで、とんでもないことが閃いた。
秀頼は、秀吉によって、家康用の囮にされたのではないか、ということだ。
秀頼の周りに日蓮宗信徒が不自然に少な過ぎるだけではなく、そもそも、秀吉は、秀頼に、乳母(注12)も、はたまた傅役(注13)らしい傅役も、つけていない。
(注12)「淀殿は秀頼を自らの母乳で育てたらしく、秀吉は淀殿の乳が足りているか心配する書状を送っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E6%AE%BF
(注13)もりやく。「君主の子息の教育係を務める重臣のことである。君主から厚い信任を受けている重臣、教養の高い重臣などが務める事例が多く、その子息が成長してからはそれを支える重臣に昇格する場合が多い。日本の戦国大名である織田信長の傅役である平手政秀、武田信玄の傅役である板垣信方などは非常に有名である。守役とも書かれる場合がある。」
https://enpedia.org/wiki/%E5%82%85%E5%BD%B9
淀殿との間の第一子の鶴松(1589~1591年)には石川光重を傅役に任じている・・乳母については不詳・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E9%B6%B4%E6%9D%BE
というのに。
秀吉は、秀頼が生まれた時、(鶴松同様、成長し、子孫を残す保証がない)秀頼一人の将来に自分の願いを託すのはリスクが大き過ぎると判断し、秀頼の利用価値は完全にそれ以外のところに見出すことにしたのではないか、だから、秀頼に無駄な「投資」は一切しようとしなかったのではないか、と。
こういうわけで、まず、鶴松の傅役であった石川光重のことを調べてみたところ、すぐに以下のようなことが分かった。↓
石川光重の子でやはり秀吉、秀頼に仕えた石川光元は、「石清水八幡宮[の祀官家紀姓田中家の分家である<八幡市>正法寺〈の修験者にして石清水八幡宮神職を兼ねた〉]志水氏の・・・志水宗清<の>・・・娘であるお亀の方を側室として光忠をもうけたが、正室浅井氏が清平を産んだことにより、お家騒動となりお亀の方は程なく実家に帰された。その後にお亀の方は奥勤めに入り、徳川家康に見初められて側室となり、松平仙千代、尾張藩主・徳川義直を産む。この縁により、<光元の子で>義直の異父兄である光忠は、家康によって召し抱えられて尾張藩の付家老とされ、1万3百石の重臣となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%B0%B4%E5%BF%A0%E5%AE%97 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%B0%B4%E5%AE%97%E6%B8%85 (〈〉内)
この光忠(1594~1628年)が生まれた時はまだ秀吉(~1598年)が存命であったわけだが、「お亀の方<(1573~1642年)>は、・・・はじめ竹腰正時に嫁ぎ、竹腰正信を生む。夫と死別後、奥勤めに入る。その後、石川光元の側室となり石川光忠を生む。光元と離縁後の文禄3年(1594年)、21歳の時、家康に見初められ側室となる。文禄4年(1595年)に仙千代を生む。仙千代は、慶長5年(1600年)2月、6歳で夭折する。仙千代の菩提を弔うため、高岳院(現・名古屋市東区)を建立した。同年11月、五郎太丸(後の徳川義直)を生む。家康の死後、相応院と名乗り、義直のいる名古屋城で暮らした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%BA%80%E3%81%AE%E6%96%B9
上出の「竹腰正信<(1591~1645年)>は、・・・母・お亀の方が徳川家康の側室となり、文禄4年(1595年)に仙千代(早世)、慶長5年(1600年)に五郎太丸(後の徳川義直)を生むと、正信も召し出されて近仕し、文禄6年(1601年)に甲斐国に5,000石を与えられる。江戸幕府初代将軍・徳川家康が大御所となって駿府に移ると本多正純・安藤直次・成瀬正成とともに側近となり、慶長12年(1607年)には成瀬と共に尾張藩主となった義弟・義直の後見に任じられる。尾張に5,000石を加増されて1万石を領し、慶長16年(1611年)には従五位下・山城守に叙任されたほか、死去した平岩親吉に代わって22歳で尾張藩の執政に任じられ、名古屋城の普請を監督した。慶長17年(1612年)には2代将軍・徳川秀忠の御前で砲術の腕前を披露し、褒美として1万石を賜り、元和5年(1619年)には主君・義直から1万石を加増されて都合3万石を領し、美濃国今尾を居所とした。これが後の今尾藩となる。正保2年(1645年)、死去。以降、竹腰家は成瀬家とともに、幕末まで尾張藩の附家老を務める家柄となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%85%B0%E6%AD%A3%E4%BF%A1
「竹腰正信<も>宗清邸で産まれたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E6%B0%B4%E5%AE%97%E6%B8%85
「竹腰氏・・・は、・・・戦国時代には美濃斎藤氏の重臣だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E8%85%B0%E6%B0%8F
以上↑を踏まえると、子孫をできるだけ大勢残そうと経産婦好みであった家康に、側室のお亀の方を側室として差し出すべく、秀吉が石川光元に命じ、お亀の方には、家康の子供を生めば、自分の子供達である竹腰正信も石川光忠も共に出世が見込まれると光元を通じて言い聞かせた、可能性が大なのではないか、と、いう気が大いにしてきた。
(続く)