太田述正コラム#3399(2009.7.16)
<文明的とは何ぞや(その3)>(2009.8.16公開)
 「・・・文明というものは、物質文化の高い水準のことを意味するように見える。・・・
 この文明概念の魅力は、現代的観点からすると、それが価値自由(value-free)であり判断保留的(non-judgmental)な点だ。・・・
 かつては、「文明」は単に物質的繁栄と先進的な社会的組織を意味するのではなく芸術と人生双方に関わる、一連の価値をも意味した。
 高度に文明的な人物とは、彼等がいかに繁栄していようと、非文明的な人物より高い関心、より優れた感覚、そしてより良いふるまいを持っていることを意味した。
 ジョン・アームストロングは、この伝統的な文明概念を熱情的に信じている。・・・
 彼の美学的感覚は強く信頼が置けるように見える。
 すなわち、彼は、例えば、エジンバラのニュー・タウンの建築(注4)とシャルダン(Chardin<。1699~1779年。フランスの画家>)の静物画(注5)を祝福する一方で、アンディー・ウォーホル(Andy Warhol<1928~87年。米国の画家・版画家・映画制作者>)(注6)、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons<。1955年~。米国の芸術家>)(注7)、そしてダミアン・ハースト(Damien Hirst<。1965年~。イギリスの芸術家>)(注8)の作品を「ひどく損傷を受けた文化の産物であって、誤った様々な理由に基づいて、それらの作品自身が利口で洗練されていて現代的であることを伝えようとするものである」と形容する。
 (注4)ユネスコ世界遺産に指定されている。その光景↓
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Edinburgh_New_Town_from_Edinburgh_Castle.jpg (太田)
 (注5)作品:http://en.wikipedia.org/wiki/Jean-Baptiste-Sim%C3%A9on_Chardin (太田)
 (注6)作品:http://en.wikipedia.org/wiki/Andy_Warhol (太田)
 (注7)作品:http://en.wikipedia.org/wiki/Jeff_Koons (太田)
 (注8)作品:http://en.wikipedia.org/wiki/Damien_Hirst (太田)
 また、彼は常に日常的次元での文明的な行動、例えば、食事を一緒に食べたり友情を育んだりすることに特別な注意を払う。
 アームストロングによる、何が真に文明的であるかについての説明は、最近社会学の教科書が載せているところの価値自由のバージョンよりもはるかに豊かだ。
 彼は、マシュー・アーノルド(Matthew Arnold<。1822~88年。イギリスの詩人・文化批評家>)(注9)と、「世界で考えられ語られたことの中で最良のもの」を知ることで我々の「日常的自身」を我々の「最良の自身」へと我々自身を高めることができる、ということについて同意する。
 (注9)http://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_Arnold (太田)
 それを実行するためには、我々は幾ばくかの物質的繁栄も享受しなければならない。
 しかし、真の文明化は、物質的なものと精神的なものの組み合わせが求められると彼は言う。その時初めて我々は自分達の生活を「高次のもの」の水準にまで引き上げることができるのだと。・・・
 ・・・彼の基本的な考え方の一つは、文明化プロセスは単純な人間活動をとりあげて、それに追加的な意義を付与することだ。
 彼の挙げる例は、日本の茶道における、お茶を飲むという単純な行為の変換だ。
 アームストロングは、ある活動は、「他の様々な価値や目的のための媒介物(vehicle)になった」時、文明化される、と言う。
 しかし、これは水も漏らさぬ哲学的議論であるとは全く言えない。
 反証例を創造するのは容易だ。
 悪しき暴虐的な人間は、子供を罰するという単純な行為に、サディスティックで性的なものを含むところの、「他の様々な価値や目的」を付与するかもしれない。
 何が重要かは、全くのところ、複数の価値が適用されていることではなく、これらの価値が、果たして文明的か暴虐的かなのだ。
 つまりは、我々は、なにゆえいくつかのものは文明的で他のものはそうでないのかの説明を求めるという、最初の場所に立っているということになる。
 アームストロングが好むアプローチは、文明化プロセスは、人々との間だけでなく、様々な考え、様々な場所、かつまた芸術作品のような様々な対象物と「我々の関係の質」を改善することだと言うことだ。
 だからこそ、「我々は、より実りある関係を形成できる様々な人々と対象物を見つける必要がある」と彼は言うのだ。
 このような意味では、我々が、繰り返しの多いポップスの歌よりもモーツアルトのピアノ協奏曲<(例えば、コラム#3261)>との方との間でより良い関係を持つことができる、ということは本当かもしれない。
 しかし、我々がそれと、より実りある関係を持つことができるがゆえにモーツアルトの音楽の方が良いと言うことは、それにはより評価に価する(appreciate)ものがある、と遠回しに言っているだけのことだ。
 換言すれば、それはより良いからより良い、というわけだ。・・・」
http://www.telegraph.co.uk/culture/books/5786207/In-Search-of-Civilization-Remaking-a-Tarnished-Idea-by-John-Armstrong-review.html
(7月14日アクセス)
3 終わりに
 アームストロングの指摘は、我々日本人にとっては、とりわけ傾聴させるものがあります。
 日本は、人間主義社会であって、また、茶道を初めてして日常的なありとあらゆるものが「道」にまで高められているという意味で、最も文明的な社会である、と彼は示唆しているとも言えるでしょう。
 その一方で、米国的なポップ・カルチャーに対して彼は実に辛辣です。
 イギリス人は、世界で一番日本の理解者である、という私のかねてよりの指摘の通りだ、と思われた方もおられるのではないでしょうか。
(完)