太田述正コラム#3359(2009.6.26)
<バターン死の行進(その1)>(2009.11.1公開)
1 始めに
 5月30日、バターン死の行進(Bataan Death March)生存者達のテキサス州サンアントニオにおける、64回目にして最後の会合の場で、藤崎一郎駐米大使は、日本政府を代表して謝罪しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bataan_Death_March
 その背景について、例によって怠惰極まりない日本の主要メディアは、電子版を見る限り、何も教えてくれませんし、当時はフィリピンは米国の植民地であったけれど、死の行進の被害者はフィリピン人の方が圧倒的に多いにも拘わらず、駐フィリピン大使が同様の謝罪を行ったという報道に接していないのも首をひねらざるを得ません。
 一体、麻生首相は、何を考えて藤崎大使に唐突な謝罪をさせたのでしょうか。
 時あたかも、米国人による汗牛充棟のバターン死の行進本に、更にノーマン夫妻(Michael Norman and Elizabeth M. Norman)による ‘TEARS IN THE DARKNESS The Story of the Bataan Death March and Its Aftermath’ が加わりました。
 この本の書評を通じ、米国の人々の本件に対する現在の心情を推し量ってみたいと思います。
2 書評に書かれていること
 (1)書評1
http://themoderatevoice.com/35150/book-review-tears-in-the-darkness-the-story-of-the-bataan-death-march-and-its-aftermath/
(6月26日アクセス。以下同じ)
 「アウシュヴィッツ、収容所列島、カンボディアのキリングフィールド<、そしてバターン死の行進>・・・」
→ナチスドイツ、スターリン体制、ポルポト派による、しかも100万~数千万の殺戮と並べるとは、呆れるのを通り越して笑っちゃいます。(太田)
 
 「Bataan Death March, a march that left more than 2,000 American and Filipino prisoners dead.・・・」
→最初は、2,000人死亡ってミスプリかと思ったのですが、いくら何でもそうではないとすると、この書評子に代表される米国人一般にとって、この事件の記憶がいかに薄れているかを示すものだし、仮にこれが米国人の死者だけの数を指しているとすると、フィリピン人蔑視が露呈したということになります。(太田)
 「フィリピンで捕虜になった約25,000人の米国人のうち、戦後生きて家に戻れたのは15,000人に過ぎなかった。・・・」
→これは誤解を生む書き方です。この書評においても、これら捕虜の多くは日本の内地に移送されており、その途中で米軍の攻撃にあって犠牲者が出ている旨の記述がなされていますし、このほか、広島に投下された原爆等によって内地で死亡した者もいるからです。(太田)
 「・・・これは、戦争の当時の日本側の観点についても掘り下げた最初の米国人による著作かもしれない。・・」
→エ! それが本当だとしたら、米国人は日本人を人間だと思ってこなかったの、と絶句しちゃいますね。とにかくできの悪い書評です。(太田)
 (2)書評2
http://www.nytimes.com/2009/06/17/books/17garner.html?_r=1&hpw=&pagewanted=print(6月17日アクセス)
 「・・・筆者達は、<バターンで>降伏したところの、部下達に愛されていた米国の少将であるネッド・キング(Edward P. King, Jr)に同情的だ。(キング将軍は、彼の兵士達に対し、降伏したのは自分であって君達ではないと明言したものだ。)」
→そうですかねえ。上記英語ウィキペディアで、(管理者から典拠をつけろと注意書きが添えられていますが、)この降伏は米比連合軍総司令官のマッカーサーやナンバー2のウェインライトの意向に反したものだったと書かれてますよ。逆に、バターンの米比連合軍が降伏するのなら、すぐ近いのコレヒドールの米比連合軍(司令部)・・兵力がこちらの方が少ない・・も降伏すべきでした。(太田)
 「一方ノーマン夫妻は、初期の米比連合軍司令官でバターンの軍についても監督下にあったダグラス・マッカーサーへの軽蔑の念を露わにしている。部下と共に戦う姿勢に欠け、しかも、部下を置き去りにして逃げ出したと。」
→ヒアヒア。ここはそのとおりです。(太田)
 「現在バターン死の行進として知られているものは、1942年4月10日に始まった。
 その多くが既に死ぬ一歩手前になっていた、約76,000人の捕虜達が、一年の中で最も暑い季節に66マイルも歩くことを強いられたのだ。途中にはほとんど建物がなく、日差しを遮る木々もなく、食糧も水もほとんどなかった。
 それが死の行進と呼ばれたのは単純な理由からだ。何ともし行進を止めると銃剣か小銃によって殺されたのだ。
 バターン死の行進で死ぬのには色んな方法があった。それは恣意的暴虐さのバカ騒ぎだったと言えよう。
 おもしろ半分に、日本の兵士達は小銃の台尻で<捕虜達の>頭蓋骨をたたき割った。
 日本の戦車は倒れた捕虜をひき殺して進んだ。
 倒れた戦友達を助けようとした情け深い捕虜達は殴られたり突き刺されたりした。
 捕虜達は、・・・まだ生きている者も埋葬するよう強いられた。
 この行進の一員となることによって、「文明の終わりに遭遇した」時に感じるであろうところのものを感じさせられた、と一人の元捕虜は語っている。
 こうして、捕虜収容所という最終目的地に到着するまでの間に約11,000人が死んだ。」
→上掲の英語ウィキペディアは、「75,000人の捕虜中約54,000人が最終目的地に到達した。この行進による死者の数は計算が困難だ。というのは、何千人もの捕虜が監視兵の目をかいくぐって逃亡することができたからだ。結局のところ、約5,000~10,000人のフィリピン人捕虜と600~650人の米国人捕虜が<最終目的地に>到達するまでに死んだ。」と記しており、この書評が上限の数字だけをあえて紹介していることは、ニューヨークタイムス掲載の書評であるだけに、嘆かわしい限りであると言いたくなります。
 ちなみに、日本語ウィキペディアの「バターン死の行進」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E9%80%B2
によれば、「・・・日本軍の捕虜後送計画は総攻撃の10日前に<策定>されたものであり、<キングの過早な降伏によって>捕虜の状態や人数が想定と大きく異なって<しまった>。・・・米比軍は約7万6千もの捕虜を出した。これは日本側の2万5千との予想[1]を大きく上回るものであった。・・・<このため、>捕虜は一日分の食料を携行<させたけれど>、・・・実際には最長で三日かかって<しまった>。<また、途中の地点>から・・・鉄道駅までの区間<は>・・・全捕虜がトラックで輸送されるはずであった。<これが実現されておれば、歩くのは半分の30マイル程度で済んだはずだった。>しかし、トラックの大部分が<まだ>修理中であり、米軍から押収したトラックも<まだ降伏していない>コレヒドール<攻略>戦のための物資輸送に当てねばならなかった。結局、<降伏した場所>から<鉄道の駅まで>の区間83キロ<と鉄道を降りた後の12キロ>を、・・・捕虜の半数以上が徒歩で行進することになった」(基本的にトーランドの本に拠る)ということであったようですし、典拠は定かではありませんが、「・・・看視の日本兵は少なく、逃亡は容易だった・・・<し、>フィリピン人の場合は、現地の民衆の間に紛れ込めばわからないので、脱走者が多かった・・・」ということでもあったようです。
 しかし、このような事情があったとはいえ、また、戦争の時には残虐行為が起こりがちであり、しかも、日本軍の場合、残虐行為を強く禁ずるという意味での規律が必ずしも厳正でなかったわけですが、戦闘が完全に終わった後の、日本兵による上出のような残虐行為については、いささか説明することが困難です。
 これについては、やはりこの日本語ウィキペディアで、「現地の指導的立場にあった辻政信は「この戦争は人種間戦争である」として、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と部隊に扇動しており、独断で「大本営から」のものとする捕虜の処刑命令を出していた。今井武夫の記録によれば、4月9日午前11時ごろ、第六十五旅団司令部から電話で、大本営命令として米比軍捕虜を射殺せよという命令が届き、ことの重大性から今井大佐は書面による命令を要求した。この命令に文書がなく、本物かどうか疑わしいため、現場では無視したり逆に捕虜を釈放したとの証言も多くある。しかし命令は絶対であるとして、実行したものもいた。本間中将はこのことについてまったく知らなかった。」とされていることで、ある程度説明がつきそうです。
 当時の日本軍の下克上ぶりには、まことに目を覆わしめるものがあった、と言わざるをえません。(太田)
(続く)