太田述正コラム#3375(2009.7.4)
<米国の独立革命の意義>(2009.11.30公開)
1 始めに
 米国が独立宣言を発した記念日の7月4日がやってきました。
 ニューヨークタイムスにこの日だからこそ載った2篇のコラムのさわりをご紹介し、米独立革命の意義を再考してみましょう。
2 すべては旧宗主国イギリスからの借り物
 「・・・<英国王の>ジョージ3世・・・の誕生日の6月4日には、<北>米<英植民地>人も夏の「花火打ち上げ(illuminations)」をやる習慣だった。この儀式が、1776年以降は、1ヶ月後の同じ日に共和国の独立を記念する日へと模様替えしたのだ。・・・
 <一事が万事、こういうことだった。>
 米議会から独立宣言を起草するよう委嘱された委員会の4人の委員は(ベン・フランクリン(Benjamin Franklin )を除き)弁護士だった。
 弁護士が通常そうするように、これらの起草者達は適当な先例を探した。君主制を投げ捨てることを正当化する手頃な文書はないかと。
 ぴったりのがあった。1689年のイギリスの権利の章典だった。
 この文書は、英議会が専制的なジェームス2世の追放を、「臣民の権利と自由」を擁護する唯一の手段として是認したものだ。・・・
 独立宣言は、<権利の章典の>型版(template)に沿っており、多く場合、<国王への>同じ苦情を再唱している。
 1689年の文書に列記されている最初の苦情は、国王が「議会の同意なくして」法を停止したり法を執行したりしたことだったが、このくだりのそのままのこだまを、独立宣言の最初の不平、すなわち、国王は「公共の善のためになり、必要であるところの、諸法に対する<我々の>同意を不要なものとした(refused)」に見いだすことができる。
 同様、独立宣言の「生命、自由、及び幸福の追求」の権利の擁護のくだりは、英国の法において確立されたところのものに比べて少しも急進的ではなかった。・・・
 ・・・起草者達は、恐らく、大昔に生命、自由、及び財産がイギリス人(Englishman)の「絶対的権利」であると認めたところの、古くさいコモンローに鼓吹されたのだろう。
 ジェファーソンによる「幸福の追求」への言及だって英国の憲法上の諸原則に立脚している。・・・
 オバマ大統領は、先月のカイロ大学での演説で、「単に米国の考え方」ではない以上、言論の自由を含むところの米建国の父達によって信奉された種々の権利は全地球的に支持されるに価する、との「断固とした」信条について語った。
 実際、それらの権利は米国<固有の>の考え方では全くなかったのだ。」
http://www.nytimes.com/2009/07/03/opinion/03freedman.html?pagewanted=print
 これは、私が以前(コラム#90で)指摘したことと同趣旨のコラムですね。
 要するに、今や人類の共通財産となったところの、イギリスに発する自由主義に米国が付け加えたものは皆無、と言ってよいのです。
3 インディアンやスペイン領の政治も良いところがあった
 「・・・インディアン達の政治形態は様々だったが、独立革命の頃には、彼等の最もありふれた統治構造は、諮問を行う長老達の会議と、制限された権力を持った複数の酋長達からなっていた。
 酋長達は、力によってではなく説得によって指導した。
 当時のモホーク族の男は、「我々の間では強制的な規則や法律はない」と説明している。・・・
 歴史学者達と人類学者達は、この権力の共有への極端な固執は、北米大陸の多くをおおむね700年から1600年まで統治した、以前の階統的なミシシッピ地域の酋長諸国への反動であった、という仮説を唱えてきた。・・・
 インディアン達は民主主義を構築したか? ノー。
 彼等はその人々に対して自由と正義を提供したか? しばしばイエス。
 インディアン達は、歴史上の苦難の教訓をふまえて、こうしてコンセンサス様式の政府を構築したのだ。・・・
 スペインのカルロス(Charles)3世は、米独立革命を、彼の帝国を北へと拡大する理想的機会であると見た。
 <米国の>大部分の人は独立戦争へのスペインの関わりを忘れてしまっているが、スペインは、英国を、ルイジアナのバトン・ルージュ、アラバマのモービル、そしてフロリダのペンサコラの戦いで打ち破っている。
 独立革命が終わった時点における欧州の地図は、スペインが現在の米国の大陸部の大部分・・メキシコ湾岸とミシシッピ川以西の全地域を領有していることを示していた。
 新たに誕生した米国からの移民達は、スペイン国王への忠誠を誓い、カトリック教徒に改宗しさえすれば、西における土地を無償で提供された。・・・
 驚くべきことに、スペイン帝国は、米国が後に西へ拡大した時に奪うこととなるいくつかの自由を提供したのだ。
 スペイン帝国の女性は、夫の保護下にある妻の地位(coverture)・・最初は父親、次いで夫の法人格に隷属する・・にはなかった。
 独立後の米国では、結婚した女性は財産を所有できず、地方政治に参加できず、陪審員になれず、遺言を書けず、契約に署名できず、自分の子供達に対する親権も行使できなかった。
 スペインの制度では、これとは対照的に、女性は名前、財産、法人格を保持していた。
 彼女達は、同等の地位の男性達と平等ではなかったことは確かだが、アングロ・アメリカ社会では与えられていなかった法的諸権利を保持していたのだ。
 スペインの植民地であったルイジアナとフロリダでは、奴隷達も若干の権利と機会を有しており、後に米国領となるとそれらを失った。
 主人によって(「通常」認められる暴力を超える)ひどい扱いを受けたと感じた奴隷達は、地域の軍司令官に訴え出る権利を有しており、彼等は時には勝利した。
 また、奴隷達は、戦争に関わると自由を得ることができた。だから、数百人の奴隷達が兵士、伝令、スパイ、労働者として戦争に関わった。
 米独立革命の後は、訴え出ると勝利することがより容易になり、スペイン領内の1,000人以上の奴隷達が自らを買い受け、あるいは家族や友人によってカネを支払われ、自由を得た。
 スペイン領ルイジアナとフロリダでの奴隷の生活は楽ではなかったけれど、米国の南部におけるプランテーション制度と比べれば、はるかに人道的だった。・・・
 ミシシッピ地域における過去について知らずに、トーマス・ジェファーソンは、彼の『バージニア州に関する手記』の中で、インディアン達は、「いかなる、諸法、強制的権力、及び政府の影に身を委ねたこともない」と記した。
 彼は、「文明化された欧州諸国のように法が多すぎる」ことは、「野蛮なインディアンの間のように法がない」ことより悪いと判断しつつ、<アングロサクソンの>代表政府は、そのいずれよりも優れていると信じていた。
 そして、米建国の父達は、スペイン人達は憎むべき英国人達よりも更に専制的だと信じていた。
 ジェファーソンは、君主制とカトリック教会(priesthood)がスペイン臣民達を「漆黒の無知に浸し、偏見と迷信によって獣的な存在にしている」と信じていた。
 彼は、大勢の黒人奴隷達や零落した白人開拓者達が足で投票をして、自由と土地を求めてスペイン領へと移動していた事実を無視したのだ。・・・
 <このように>北米史を見ていくと、政治制度は、その形態よりは、細部こそが人々の生活に差異を作り出す、ということが明らかだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/07/03/opinion/03duval.html?_r=1&pagewanted=print
 この傳で行けば、日本の江戸時代はもっともっと注目されてしかるべきでしょうね。
4 終わりに
 米国の知識人達も随分謙虚になってきたものだ、と思われませんか。
 何度も申し上げていることですが、20世紀前半の米国が、有色人種差別意識に基づき、東アジアを無茶苦茶にした、という米国の(黒人差別に続く)第二の原罪を追求する時がついにやってきています。
 同時に、中国国民党やとりわけ中国共産党が、この原罪の片棒を担いだことを厳しく咎めなければなりません。
 そのためにも、日本人は、日中戦争から先の大戦にかけて、旧軍が犯した種々の蛮行を自ら厳しく断罪することから逃げてはいけないのです。