太田述正コラム#3465(2009.8.16)
<イギリス反逆史(その1)>(2010.1.11公開)
1 始めに
 イギリスにおける反逆の歴史の本が出たとなれば、紹介しないわけにはいかないでしょう。
 デーヴィッド・ホースプール(David Horspool。1971年~)の ’The English Rebel: One Thousand Years of Troublemaking, from the Normans to the Nineties’ がそうです。
 例によって、この本の書評(下掲)を用います。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/85f854f6-82e2-11de-ab4a-00144feabdc0.html
(8月13日アクセス)
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6794569.ece?print=yes&randnum=1250405102796
(8月16日アクセス。以下同じ)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/5965618/The-English-Rebel-by-David-Horspool-review.html
D:http://www.guardian.co.uk/books/2009/aug/16/english-rebel-horspool-hattersleyEhttp://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=14164467
F:http://www.spectator.co.uk/the-magazine/features/5228828/part_5/ready-to-rebel-you-are-part-of-a-glorious-tradition.thtml
G:http://www.literaryreview.co.uk/mitchell_08_09.html (もう1冊の Edward Vallance, A Radical History of Britain: Visionaries, Rebels and Revolutionaries, The Men and Women Who Fought for our Freedoms の書評を兼ねている)
 ちなみに、ホースプールは、歴史家であり、タイムス文学付録(Times Literary Supplement)の編集長でもあります。
2 イギリス反逆史
 「・・・仮に英国について、政治的に安定しているという評判があるとすれば、それは極めて最近生まれた評判だ。
 18世紀と19世紀に英国を訪問した欧州からの旅行者達は彼等が目にした混乱(disorder)に仰天したものだ。
 <その頃までは>明らかにお咎めなしに群衆が人々を攻撃したり財産を破壊したりしていた。
 この種の<群衆の>動きは実際には予測可能であり定式化されていた(formulaic)が、よそ者の目には恐ろしく映じた。・・・
 この英国の歴史には「急進的(radical)伝統」があり、このことは急進派自身が十分自覚していた。
 特定の世代の反逆者達は、彼等の前任者達の唱えた要求を詠唱し、<前任者達が行った>殉教を繰り返した(revisited)。
 <19世紀末から20世紀初頭にかけての>婦人参政権論者達(suffragettes)は<19世紀中頃の>チャーチスト達(Chartists)を引用し、チャーチスト達は、<17世紀中頃のイギリス内戦当時の>水平派(Levellers)を引用し、誰もが<1215年の>マグナカルタを引用した。
 もとより、多くの場合、これは実際の歴史というより想像された過去に過ぎないのだが、それにもかかわらず、その強力さが減じることはなかった。・・・
 ・・・<反逆と言っても、>英国王を殺すことができたのは、ロジャー・モーチマー(Roger Mortimer<。1287~1330年。エドワード2世を殺害し3年間イギリスを実質的に支配した>)とヘンリー・ボリングブローク(Henry Bolingbroke<。1367~1413年。リチャード2世を廃位させ、自分が国王に就任し、その後リチャードを殺害した。>)だけだ。
 チャールス1世だって、クロムウェルのような郷紳の<正規の>命令(behest)を受けて処刑されたものだ。・・・
 英国の反逆的な人々はおかしな連中だった。
 しばしば、彼等は自分達が目新しいことを考えているということを完全に否定するのにやっきとなるからだ。
 これは、歴史の奇妙な解釈に基づき、霧に包まれた過去においてうまく機能した諸慣習を復活することを追求しているだけだという言い分が可能だからだ。
 あるチャーチストとそのお友達連中は、1838年に「我々は変化を求めているのではない。我々は、イギリスの古き良き諸法をそのまま我々に与えよと言っているのだ」と唱えた。
 この愛国的言明が意味するところは、過去のいつかの時点で、正しいものごとのやり方が、一種暴虐なる我利追求によってゆがめられた、ということだ。
 だから、当面やらねばならないことは、失われてしまったものを回復することであり、これは<9世紀の>アルフレッド大王の法典、またはアルジャーノン・シドニー(Algernon Sidney<。1623~1683年。イギリスの政治家にして政治理論家。大逆罪で刑死>)の著作<’Discourses Concerning Government’>、もしくは<1689年の>権利の章典(Bill of Rights)の諸規定を再確認するか、はたまた似たような歴史上の諸経験のメニューの中から選ぶかだ、というのだ。
 <このような>歴史<的アプローチ>は、抽象的理論と取り組むよりは心地よいし安心できる。
 理論化するのは<理論大好き人間である>フランス人とドイツ人にまかせておけばよい。
 <イギリスでは、争議等についての>投票を追求する職工達や困った国王について不満を口にする領主達(barons)は、みんな、彼等の行動を過去の典拠に基づいて正当化することを好んだ。
 ・・・自然権に基づく議論が用いられるようになったのは<17世紀中頃の>イギリス内戦<(清教徒革命)>の最中からだが、この新しい観念は、既に長きにわたって確立していた歴史<的アプローチ>に対する選好に取って代わることは困難だった。
 1789年<のフランス革命>の後、英国の急進派は、フランス革命が暴力へと堕して行ったのは理論上の諸権利の議論にふけり過ぎたからだ、ということで説明できると考えた。
 イギリス人は、これとは対照的に、彼等を自由へと誘う運命を持っている幸福な歴史を享受しているがゆえに彼等は自由なのである、というわけだ。
 これに加えて、イギリスの反逆者達は、新しいことを求めていることを否定するだけではなく、自分達が反逆者ではそもそもない、とも主張した。
 欧州では、革命家達が、良心の呵責などほとんどなしに体制転覆の必要性をがなりたててきた。
 ところが英国では、どちらかと言えば、既存の当局に訴えてもっと良くふるまってくれるよう求める、というやり方だったのだ。
 国王というものは彼等の臣民達にかける負担を減らすべきだし、議会というものは<臣民達にとって>望ましい変化をもたらす立法をすべきだ、というのだ。
 儀式的というか、行進と集会は当局の担当部局に対する請願でお開きとなったものであり、その担当部局は、これまた儀式的にというか、請願を拒否すると相場が決まっていた。
 反逆者の多くは余りにも法的思考に囚われていて、彼等が支配した地域において自分達の裁判所や行政システムを打ち立てたものだ。
 流血と大騒ぎの渦中にあっても、しばしばより大きな秩序を模索する動きが見られた。
 ホースプールは、「イギリス人は粘り強い反逆者であることを示したが、余り効果的な革命家ではなかったことも示した」と総括している。
 これらすべてが既視感を生み出している。
 ケント州、エセックス州、サフォーク州では、中世の反逆者達は、彼等の父親達や祖父達に臨時の宿を提供したところのヒース原(heaths)に、またぞろ宿営地を設けたものだ。
 獲物として彼等が狩ったのは、法律家達、過度な金持ちに余りにも急速になった連中、そしてもちろん外国人達だった。
 代わる代わる、ロンバルド人(Lombards)、フラマン人(Lombards)、ユダヤ人、そしてアイルランド人が問題を引き起こす元としてやり玉に挙がった。
 また、代わる代わる、悪廷臣達や信用をなくした政治屋達に対し、こいつらが消えたらもう一度地上が光で満たされるだろうと怒りが投げかけられた。
 このようなパターンは、反逆者達には経済的かつ社会的苦境がまずあって、それから彼等はそのはけ口たる対象を求める、ということを示唆している。
 つまり<イギリスでは>、反逆が、全く新しい物事の秩序に係るビジョンを提供するイデオロギーから出発したことはほとんどない、というわけだ。・・・」(G)
(続く)