太田述正コラム#3543(2009.9.24)
<ブランダイス–米国の良心(その1)>(2010.1.29公開)
1 始めに
 英国の経済学者の話に続いて、今度は米国の法律家の話です。
 私がこれまで米国人で褒めたのは、どちらも大統領であるオバマとフーバーくらいのものですが、もう一人、尊敬できる人物として、ルイス・D・ブランダイス(Louis Dembitz Brandeis。1856~1941年)がいます。
 日本の法学部を出た人なら名前くらいは聞いたことがあるでしょうが、一般の方には耳慣れない名前かもしれません。
 このたび、米Virginia Commonwealth Universityの歴史学教授のメルヴィン・I.ウロフスキー(Melvin I. Urofsky)が ‘LOUIS D. BRANDEIS A Life’ を上梓したので、その書評と抜粋を使ってブランダイスについてご紹介したいと思います。
A:http://en.wikipedia.org/wiki/Louis_Brandeis
(9月24日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2009/09/21/books/21liptak.html?hpw=&
pagewanted=print
(9月22日アクセス。書評。次も同じ)
C:http://www.law.gmu.edu/assets/files/events/2009/04/roundtable/urofsky.pdf
D:http://www.bookmarksmagazine.com/book-review/louis-d-brandeis-
life/melvin-i-urofsky
(9月22日アクセス。本の抜粋)
 ブランダイスは、移民ユダヤ人の両親の間にケンタッキー州で生まれ、ハーバード・ロースクールを、同ロースクールの歴史上最優等の成績で、しかも弱冠20歳で卒業し、1916年から1939年まで米最高裁判事を務めた人物です。(A)
2 ブランダイス–米国の良心
 (1)最高裁判事への任命
 「・・・ブランダイスは、法を道徳性と進歩の道具(instrument)と考えた。
 「社会正義についての今日的観念に法的正義を合致させる(conform)ことはやりがいがあると思わないか」と彼は、ウィルソン大統領が彼を最高裁判事に指名する数週間前に、あるスピーチで問いかけた。
 今なら、ブランダイスのような法律家が指名されるなどほとんど想像することさえできない。
 そして、現時点で考えても、彼の指名が承認されたことはちょっとした奇跡だった。
 当時の慣例に照らし、ブランダイスは<議会で>証言はしなかった。
 とはいえ、累次の承認聴聞会は過酷なものだった。
 ブランダイスの母校であるハーバード大学の学長は彼を承認することに反対した。
 米国法律家協会(American Bar Association)の過去の会長7人も反対した。
 元大統領で後に最高裁判所長官となるウィリアム・ハワード・タフト(William Howard Taft<。>1857~1930年)<(コラム#249、263、443、1481、3148、3253)>は、ブランダイスのことを「甚だしく非良心的(unscrupulous)」であって「無限の悪知恵(cunning)を持った男」と呼ん
だ。・・・」(B)
 「1916年にウィルソンが59歳のブランダイスを指名してからの6ヶ月間の過酷な承認戦争を<この本で>読むことができる。
 それは、進歩派と、弁護士界、金融界、産業界の保守派の指導者達との厳しい戦いだった。
 後者は、ブランダイスをユダヤ人と直接攻撃することは決してなかったけれど、彼を「争い好き(striver)」、「自己宣伝家」、「紳士クラブの中の攪乱分子」と形容した。
 ハーバード大学学長のA・ローレンス・ローウェル(A. Lawrence Lowell<。1856~1943年>)さえ、ブランダイスが「司法的気質」を欠いていると非難する陳情書に署名した。
 そして我々は、最終的に、彼の最高裁時代の23年間に、この巨人にして知識人が、いかに、自由な言論に係る近代的法理、憲法で保護されたプライバシーの権利の教義や、法人格付与(incorporation)の教義・・権利の章典が各州にも適用される・・として知られることとなるものを形成したかを知るところとな
る。・・・」(D)
 「・・・ブランダイスは最初のユダヤ系の最高裁判事となったのであり、タフトのブランダイス評は、少なくとも反ユダヤ主義の気がある。
 しかし、ウロフスキー氏は、聴聞において反ユダヤ主義は一般的には抑制されていたとする。
 事実、ブランダイスの宗教の話は、彼の一般的な経歴の中でたった一度だけ登場するだけだ。
 ユダヤ系であることは「物事を複雑にした要因」ではあったけれど、ブランダイスの急進的な信条と経済界の利益への敵意こそが彼の敵を刺激した、とウロフスキー氏は結論づける。・・・」(B)
 (2)最高裁判事としてのブランダイス
 「・・・ブランダイスは、まだ古い古典的法理が支配していた時に最高裁判事となったが、彼は彼の同僚達と公衆・・とりわけ諸ロースクール・・に対し、法は経済と社会について行くためには変わらなければならないことを教えようと試みた。・・・
 やがて最高裁は、彼の反対少数意見を、正しい憲法解釈として、ことごとく採用するに至る。・・・」(D)
 「・・・<彼は、最高裁判事としての>23年間を、司法的抑制、立法的政策選択への敬意、そして個人的諸権利・・とりわけ言論・・が強硬に守られなければならないこと、を訴え続けた。
 この間、彼は、今日の司法的倫理の基準に照らせば、許されないか或いは判断の是非が疑われるような、司法以外の分野での活動を継続した。・・・」(C)
 「・・・ブランダイスは、しばしばオリヴァー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(Oliver Wendell Holmes Jr.<。1841~1935年。ハーバード・ロースクールができる前のハーバードで法律学を修める>)判事とペアを組んで、全般的には保守的であった当時の最高裁の中で反対少数意見を提示した。
 ホームズは抽象と格言的警句を好んだのに対し、ブランダイスは詳細な情報が大好きだった。・・・
 ブランダイスは、フランクファーター(<Felix >Frankfurter<。1882~1965年。オーストリア出身。ハーバード・ロースクール卒>)<判事>に対し、自分は財産権に関する限り、憲法はより自由に解釈すると語っている。
 すなわち、彼は、個人的諸権利を制限する諸法はより緻密な考察を行ったけれど、財産権に関しては、これを規制する諸法を違憲とすることがほとんどなかったのだ。・・・」(B)
(続く)