太田述正コラム#3646(2009.11.14)
<東欧の解放(その1)>(2010.2.26公開))
1 始めに
 1989年のソ連からの東欧の解放10周年にあたって、英米で行われている論議をこれまで累次取り上げてきているところですが、二つのやや単純すぎる説の紹介とこれらの説への批判を通じて、本件について更に掘り下げた検討を行ってみましょう。
 例によって、書評を典拠にしました。
a:Stephen Kotkin ‘Uncivil Society’
b:Pleshakov ‘No Freedom Without Bread’
<aとb等の書評>
A:http://www.slate.com/id/2234716/pagenum/all/#p2
E:http://pdc-cuba.org/otros-temas/especiales/la-caida-del-muro-de-berlin/683-the-suicide-of-the-east-1989-and-the-fall-of-communism.html?start=3
(11月10日アクセス。特に断っていない限り、以下同じ)
<a等の書評>
B:http://www.economist.com/books/PrinterFriendly.cfm?story_id=14793111
C:http://putinwatcher.blogspot.com/
D:http://www.nybooks.com/articles/23232
<b等の書評>
F:http://www.bookforum.com/review/4719
2 東欧の解放
 (1)体制自壊説
 
 「『非市民社会(uncivil society)』は、ソ連型社会主義の終焉を三つのソ連圏の代表的な諸国である東独、ルーマニア、及びポーランドを対象に検証する。
 <スティーヴン・>コトキン(<Stephen >Kotkin)は、本件では大部分の分析者達が、「「市民社会」として幻想<的に体現>化させるところの「反対派」、にもっぱら不釣り合いに焦点をあて続けることに不満をぶつける。
 連帯(Solidarity)運動が共産党体制への真の対抗馬を構成していたポーランドを例外として、よりよい秩序をモデル化することによって1989年の大衆蜂起の前衛となった雄々しい抵抗運動、といった観念は、コトキンの見解では、「フィクションの範疇に属する」のだ。
 彼は、(様々な過ちややり過ぎはあったけれど、)<欧米諸国が>断固としてソ連の封じ込めを行ったことは評価するものの、欧米諸国の直接的行動がソ連<圏及びソ連>の崩壊をもたらした重要な原因であったとは見てはいないように見える。
 その代わり、彼はすべてを「自壊(implosion)」と見ている。
 ソ連型のエスタブリッシュメント(、すなわち「非市民社会」、)は単に<共産主義という>お化けを<信じたフリをすることを>諦めたというわけだ。<彼等の>中には、<ソ連圏及びソ連の>分解を助けたケースまであった。・・・」(C)
 「・・・コトキンは、・・・プレシャコフ<(後出)>と、1989年の本当の物語は、下からの革命と言うよりは支配するエリート・・すなわち、彼の本のタイトルである「非市民社会」・・の致命的なものとなった分裂だった、という見解を共有している。
 ゴルバチョフは、<体制の>管理運営の失敗を公衆の監察に供すべく開示した。
 「ゴルバチョフは、ソ連圏内の社会主義がいかに資本主義との競争と毎年新たに借りることによってのみ返済できるところの・・・借金によって押しつぶされているかをありのままに晒す、ということをやってのけたのだ」とコトキンは記す。・・・」(E)
 「・・・ソ連帝国はワルであったかかもしれないが、それは・・・毎年より多く必要となるカネによって支えられていた。
 そのカネがなくなった時、国々は自壊した。
 これが、スティーヴン・コトキンの薄いけれど粋な本が紡ぎ出す物語だ。
 この本は、彼が呼ぶところの「非市民社会」、すなわち権力サークルの堕落と分裂に焦点をあてる。
 こちらの方が、欧米で<東欧で>「市民社会」<が出現した>として担ぎ上げられたけれど、それぞれの国においては知られていないところの反体制派達よりも重要である、と彼は主張する。
 <しかし、>コトキン氏が、いくつかの国が破産によって譲歩することを強いられたとするのは正しいが、彼はこのことを喧伝しすぎる。
 <例えば、>チェコスロヴァキアは、変化への喫緊の経済的な圧力の下にはなかった。
 当時のルーマニアと現在の北朝鮮の不愉快な例が示すように、十分に決意した共産主義者たる指導部が抑圧を通じて経済的失敗を持ちこたえることはできるのだ。
 しかも、1989年は、<抗しがたい>成り行き<という物語である>とともに人民の物語でもある。
 確かに体制側の中の改革派と日和見派<の存在>も重要だったが、大部分の国では、変化のペースを設定したのは反体制派達だったのだ。・・・」(B)
(続く)