太田述正コラム#3800(2010.1.30)
<アラブ世界論をめぐって>(2010.2.27公開)
1 始めに
 アラブ世界論については、私自身、語り尽くした感があります。
 このたび、米国で新しいアラブ世界論に関する本が上梓され、時節柄、米国で結構話題になっています。
 リー・スミス(Lee Smith)の ‘The Strong Horse: Power, Politics, and the Clash of Arab Civilizations’ です。
 若干の期待をしたのですが、やはり、新しい説と呼べるようなものは展開されてはいなさそうです。
 しかし、米国人の国際理解の程度が良く分かるので、この本の書評類のさわりをご紹介することにしました。
A:http://www.csmonitor.com/Books/Book-Reviews/2010/0127/The-Strong-Horse
(書評)(1月28日アクセス。以下同じ)
B:http://www.goodreads.com/book/show/6592568-the-strong-horse
(同上)
C:http://www.thenational.ae/apps/pbcs.dll/article?AID=/20091224/REVIEW/712249992/1008/
(同上) 
D:http://www.nowlebanon.com/NewsArticleDetails.aspx?ID=137889 
(著者との対談)
 ちなみに、スミスは、米ウィークリー・スタンダード誌の中東特派員だった人物です。(A)
2 スミスのアラブ世界論
 「・・・植民地主義が<アラブ>地域の混乱に拍車をかけたとか、アラブ自由主義は米国による軍事介入を待ち望んでいるとか、技術と民主主義が<この地域を>変貌させつつあるとかいうのは真実ではないとして、スミスは、彼の言う「強馬教義(Strong Horse Doctrine)」なるものを提唱する。
 それは、アラブ人達は、力、権力、そして暴力と提携することを欲しているというものだ。・・・」(B)
 「・・・彼は、9.11<同時多発テロ>は、米国に対する攻撃ではなく、アラブ内での戦いの延長がマンハッタン南部の新しい戦場へと輸出されたものだ、と主張する。・・・
 スミスの強馬理論は、「暴力がアラビア語をしゃべる中東における政治、社会、文化において中心的である」との確信に立脚している。
 強馬とは、力の使用を通じて他者、つまり、より弱い馬達に自分の意思を押しつけることに最も長けている人物、種族、国、または民族のことだ。
 スミスの結論は、少しも新規なものではない。
 それはトゥキディデス(Thucydides)の『ペロポネソス戦争史』からの警句、「強者はその欲するところを行い、弱者は苦しむべくして苦しむ」を再適用したものだ。・・・
 ・・・アラブ世界は、自分自身と長きにわたって戦争を行ってきたのであり、現在は確実なる自己破滅に向かって進んでいる<というのだ。>・・・」(A)
 「・・・中東においては、ほんの少しの例外はあるが、当局の平和的交替はないし、権力は分かち合われることなく、通常は家族の一員から他の一員へと、あるいは軍事クーデターによって移行する。・・・
 オバマは、国連演説で、政治と同じくらい古い戦略的原則であるところの、力の均衡に反対する議論すら行った。・・・
 イスラエルとアラブ諸国の仲介者にならなくなれば、それは米国にとっても良くないことだ。
 米国に保護されるべく依存することができなくなれば、アラブ諸国はイスラエル頼み、という気持ちになるかもしれない。・・・」(D)
3 反論
 英エコノミスト誌の中東特派員のマックス・ローデンベック(Max Rodenbeck)のスミスへの反論に耳を傾けましょう。
 「・・・中東の相対的な遅れの原因<は何だろうか。>・・・
 経済学者達は、アラブの諸政府の、租税ではなく金利生活者的収入への依存がそのアカウンタビリティーの欠如の原因であると指摘する。
 社会学者達は、イスラム教によって補強されたところの、家父長的権威に対する敬意という伝統を、東欧におけるような体制を揺るがす大衆的抗議運動の失敗の理由として持ち出す。
 歴史家達は、帝国主義後の諸国境と諸政体の脆弱さが自信のない諸政府を市民達のニーズを無視した国家建設の追求へと駆り立てたと述べる。・・・
 ・・・<ところが、これらのそれなりに根拠のある説明に反対し、スミスは、>「強馬原理」、すなわち一つの種族、民族、あるいは文明が他者達を力で支配し、それがまた力で転覆させられるという明らかに独特の古からのシステム<なるものを提起する。>
 彼は、「強馬」は、アラビア語圏の中東における根本的性格であると言う。
 それは、年がら年中、暴力的で拝外主義的な場所であり、彼の言葉によれば、「ビンラーディン主義は過激派的辺境から出現したのではなく、社会的規範を代表している」のだ。・・・
 彼のこの200頁の本による神話攻撃は間違い、誤判断、そして論理の過ちの穴だらけだ。
 ・・・例えば、スミスは、スンニ派のアラブ人達が1400年にわたって「暴力と抑圧と強制によって」少数派を押しつぶして統治してきたと主張する。
 しかし、スンニ派がこの地で統治するのは当たり前だとも言える。
 というのも、アラブ人の10分の9はスンニ派イスラム教徒だからだ。
 (スミスがあげる70%という数字は、宗教的少数派だけでなく、イラクのクルド人や北アフリカのベルベル人といった民族的(ethnic)な少数派を勘定に入れたとしても成り立ち得ない。)
 この永続的なスンニ派アラブ人による恐怖の(terror)支配(reign)という理論にとってもう一つ都合の悪いことは、イスラム教生誕以来の大部分の期間、この地域の支配者はスンニ派アラブ人ではなかったことだ。
 そのうちのいくつか、例えばエジプトとヒジャーズ地方とレヴァント地方の多くを969年から1171年の間統治したファーティマ朝(Fatimid Caliphate<。909~1171年
http://en.wikipedia.org/wiki/Fatimid_Caliphate (太田)
>)のカリフ達、は宗派で言えばシーア派だった。
 当時以来、この地域の統治者の大部分、例えば、断絶することなく1260年から1918年まで(注2)アラブの心臓部をコントロールしたのは、民族的にはトルコ系のマムルーク朝(Mamuluk Sultanate)(注1)やオスマントルコ(Ottoman Empire<。1299~1923年
http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire (太田)
>)のスルターン達だった。・・・
 (注1)9世紀頃からシベリアから現在のウクライナ地方移住してきたトルコ系民族をキプチャク人(Kipchaks)と呼ぶ。13世紀にモンゴルがこの地を支配し、キプチャク汗国を設立した。この汗国が1502年に滅亡すると、キプチャク人は四散し、その中からマムルーク朝(1250~1517年)のスルターンになった者が輩出した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mamluk_Sultanate_(Cairo)
http://en.wikipedia.org/wiki/Kipchaks (太田)
 (注2)1260年というのは、正式にマムルーク朝が始まった年。既に1250年には、後にマムルーク朝の初代スルターンとなる、キプチャク人のバイバルス(Baibars=Baybars。1223~77年)がアイユーブ朝(Ayyubid dynasty。1171~1341年)からエジプト等における実権を簒奪していた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ayyubid
http://en.wikipedia.org/wiki/Baibars
 また、1918年というのは、オスマントルコが第一次世界大戦に敗北し、実質的に滅亡した年。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_Empire (太田)
 スミスは、聖戦主義者達による、アラブの10いくつもの都市を対象とした致死的な一連の爆破・・それにより、<アラブの>諸体制とその市民達は、おおむねビンラーディン主義への嫌悪感で結束するに至っている・・に言及することさえしていない。・・・
 この現実無視は、二つのことによってもたらされたように見える。
 一つは、彼のアラブ人に対する、あえて言えば、時代錯誤的で恩着せ顔の(patronising)態度だ。・・・
 スミスのアラブ人に対する誹謗中傷のもう一つの動機は、容易に想像がつくことだが、政治的なもののように見える。
 この本では、最初のあたりから、彼によって、米国の政策、とりわけそのイスラエルに対する支持、はこの地域における米国の不人気とおよそ何の関係もない、ということを証明しようという試みがなされている。
 それどころか、このユダヤ国家は、単に<米国にとっての>戦略的な資産であるだけではなく、アラブ人達が次第に恐れを抱くようになりつつあり、しかるがゆえに従おうとしつつあるところの、地域における強馬となったのだ、とスミスは熱狂的に語る。
 <こんな説はムチャクチャだとしか形容のしようがない。>(C)
3 終わりに
 スミスは長らく米国の雑誌の中東特派員を務めた人物であり、スミスを批判しているローデンベックは、現在、イギリスの雑誌の中東特派員を務めている人物ですが、二人の中東への造詣の深さには、比べようもないほど、絶望的な差があることがお分かりいただけたでしょうか。
 この二人の差は、現在の世界覇権国である米国と、かつての世界覇権国であったイギリスの国際理解の差を端的に表しているのです。