太田述正コラム#3770(2010.1.15)
<シベリア出兵(その1)>(2010.5.20公開)
1 始めに
 次著の欠缺部分を埋めるため、まずは、今まで論じたことがなかったシベリア出兵をとりあげることにしました。
2 背景
 「チェコスロヴァキア(チェコ)人捕虜達は、<第一次世界大戦において、>オーストリア=ハンガリー帝国軍に徴兵されロシア軍に捕らわれた。
 彼等は、長らく自分達の独立国家を創ることを願っており、中央諸列強(Central Powers)と戦うためにロシア軍によってチェコ特別部隊が編成された。
 1917年に<10月革命でロシアの権力を奪取した>ボルシェヴィキは、チェコ兵団(Legion)が<革命に関し>中立を維持し、ロシアを退去することに同意するならば、連合諸列強(Allied forces)の側で西部戦線において戦うために、シベリアからウラジオストック経由でフランスに赴く自由通行権を認めるという声明を発した。
 チェコ兵団はシベリア鉄道でウラジオストックに向けて出発した。
 しかし、1918年5月、道半ばでこの合意が崩壊し、彼等とボルシェビキとの間の戦闘が勃発した。・・・
 英国とフランスは<、ロシアに軍事介入することとしたが>、割くべき部隊が決定的に不足していた<ため>、ウィルソン大統領に米軍兵士を軍事介入作戦に提供するよう求めた。
 1918年7月、・・・ウィルソンは、アルハンゲリスクに・・・5,000人の米陸軍兵士を派遣することに同意した。
 そして更に8,000人の兵士を・・・ウラジオストックに派遣した。
 同月、英国も、<カナダ軍を中心とし、オーストラリア軍とインド軍を含んだ英連邦軍をアルハンゲリスク等に派遣した。>
 日本は、・・・<各国中>最大の70,000人の軍隊を<シベリアに>派遣した。」
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War
(1月14日アクセス。以下同じ)
 「・・・<当時、>ロシアに効果的に軍事介入する能力を持っていた列強は日本だけだった。・・・」
http://www.bbc.co.uk/history/worldwars/wwone/eastern_front_01.shtml
3 各国のねらい
 (1)英国
一、ドイツまたはボルシェヴィキがアルハンゲリスク(Arkhangelsk<。西部ロシアにおいて白海に注ぐ河の河口の港町
http://en.wikipedia.org/wiki/Arkhangelsk (太田)
>)に貯蔵されていた連合国物資を取得することを妨げる。
二、シベリア鉄道<沿線>で立ち往生していたチェコ兵団を救出するために攻撃をしかける。
三、チェコ兵団と地域市民による拡大反ボルシェヴィキ軍の協力を得つつボルシェヴィキ軍を打ち破り、東部戦線を再興する。そしてその過程で、ロシアにおける共産主義とボルシェヴィキの大義の普及を阻止する。
(ウィキペディア上掲)
 「・・・1918年にロシアに軍事介入する決定を下した連合諸国の指導者達に反ボルシェヴィキ感情が欠如していたわけではなかったが、彼等の主要な関心事は、大戦争<(第一次世界大戦)>であって、ロシアの内戦ではなかったし、彼等が欲したのは西部戦線への圧力を緩和するために東部戦線の再建を試みることだった。
 この動機は<大戦争が終結した>1918年11月11日に消滅し<てしまっ>た。・・・」
 (BBC上掲)
 「・・・ロシアは、欧米と比べ、東方正教と皇帝による統治によって形作られたところの、根本的に異なった政治的文化を形作っていた。・・・
 ・・・
 19世紀を通じ、ロシアの海洋へのアクセスを改善することは歴代皇帝の外交政策の長年にわたるねらいだった。・・・
 これに対し、英国は、1850年代のクリミア戦争以来、ロシアの拡張の速度を減じさせる決意を抱いてきた。・・・<これがいわゆる>グレート・ゲームだ。・・・
 しかし、英国のロシア拡張への恐怖は、1905年にロシアが日露戦争に敗れたことによって薄れた。・・・
 <後の>ソ連の欧州における政策は、・・・帝政ロシアの領域的拡大同様、脆弱なロシア辺境を確保する動機に根ざしていた。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Origins_of_the_Cold_War
 日露戦争における日本の勝利が、皮肉にも、英国とロシアが第一次世界大戦で同盟国となるという逸脱現象を引き起こしてしまったということです。
 そのロシアで共産革命が起こったことに不快感を覚えつつも、ロシアは引き続き容易に抑止して行くことができる、と英国は考えたのでしょう。
 そもそも、当時の英国は、国内でもアイルランド独立問題を抱えていました。
 1916年には武装蜂起がダブリンで起こり、1918年に英国政府が徴兵制をアイルランドでも敷こうとしたことが火に油を注ぎ、1919年からはついに独立戦争がアイルランドで始まり、それが1921年まで続きます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Irish_War
 共産主義に対抗するどころの騒ぎではなかったということです。
 しかし、結局のところ、第一次世界大戦中の1916年に首相に就任し、1922年までその職にあったロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1st Earl Lloyd-George of Dwyfor。1863~1945年)という見識のない人物の存在が、世界、とりわけ日本にとって、大きな不幸であったと言わざるを得ません。
 彼は、蔵相時代に英国を福祉国家へと変貌させた、という意味では大きな業績を残しましたが、首相としての評価は、経済学者のケインズがその著『平和の経済的帰結(The Economic Consequences of the Peace)』の中で、ドイツ賠償問題に関し、ロイド・ジョージのことを、「ケルト的古代の、悪夢にうなされたような魔法と魔法をかけられた森の時代から我々の時代にやってきた、半人間の訪問者」と形容したことに尽きています。
 (ちなみに、ロイド・ジョージはウェールズ語が母語であり、英語を母語としない唯一の英国首相です。)
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Lloyd_George
 彼こそ、フランスの当時の首相クレマンソーとともに、第二次世界大戦の原因をつくった元凶なのです。
 (そのロイド・ジョージが、1936年にヒットラーに会って、「生きている最も偉大なドイツ人」、「ドイツのジョージ・ワシントン」と彼のことをべた褒めした文章を残している(ウィキペディア上掲)ことは、決して驚くべきことではありません。)
 (2)日本
 「・・・日本は、緩衝国家をシベリアに打ち建てようと欲した。・・・」
Humphreys, Leonard A. ‘The Way of the Heavenly Sword: The Japanese Army in the 1920’s’(1996) PP.25
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War上掲からの孫引き)
 「・・・当時の日本側の事情として、領土獲得への野心、日露戦争後に失った利権の奪還、地政学的な理由(日本はロシアと地理的に近く、さらに日本の利権が絡んだ満州、日本統治下の朝鮮半島は直接ロシアと国境を接していた)等のみならず、政治的・イデオロギー的な理由もあった。すなわち、日本の政体(国体)である天皇制と革命政権のイデオロギーは相容れない以上、共産主義が日本を含めた同地域に波及することをなんとしても阻止する必要があったのである・・・」
 (同じ本を引用した
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5
からの孫引き)
 ロシアにおける共産革命を、世界の列強の中で、最も深刻に受け止めたのが日本だったということです。
 そもそも、幕末以降の日本の安全保障政策は、ロシアの拡張を阻止することを唯一最大の目的としていました。
 (私の言う横井小楠コンセンサスの一環です。コラム#1609、1610、1613参照のこと。)
 日露戦争勝利の後といえども、日本はロシアに強い警戒心を抱き続けました。
 そのロシアが、それまではイデオロギーらしいイデオロギーを掲げていなかったというのに、急進的イデオロギーを掲げる勢力に乗っ取られてしまったのですから、日本が非共産主義の緩衝国家をシベリアに打ち建てて、共産主義勢力の東アジアへの浸透を阻止しようとしたことは、当然であったと言うべきでしょう。
 今にして思えば、当時でまともだった国は日本だけだったのです。
 (3)米国
 最も問題であったのは、米国の対応です。
(続く)