太田述正コラム#3816(2010.2.7)
<テンプル騎士団(その3)>(2010.6.16公開)
 (4)後日談
 「・・・<テンプル騎士団の財産を承継した>聖ヨハネ騎士団は、やがてマルタ島に撤退し、最終的に1798年にナポレオンによってそこも逐われてしまった。
 しかし、この騎士団は現在でも存続しているし、国連内で準主権国家的なオブザーバーの法的地位を有してさえいる。・・・」(A)
 「・・・テンプル騎士団は、欧州中で根絶されてしまったわけではない。
 スペインとポルトガルでは、彼等は、解体される代わりに、他のいくつかの名前の下で王室からの保護と贔屓を受け、ご当地での累次の十字軍・・イベリア半島におけるアラブ人による占領に対するリコンケスタ(再征服)・・で良い仕事をやってのけた。
 ポルトガルでは、テンプル騎士団は、キリストの騎士団となり、何と航海王エンリケ(Henry the Navigator)が彼等の騎士団長になり、テンプル騎士団の富と熱意を使ってアフリカ沿岸を船団で下らせ、また大西洋深くアゾレス諸島とマデイラ諸島に至らせた。
 アフリカを回ってのインドへの航路を1498年に初めて発見したヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)、1519年に初めて世界一周をしたフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)、そして1492年にアメリカ<大陸>を発見したクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は、全員、かつてテンプル騎士団であったところの騎士団の団長としての航海王エンリケが結んだ果実なのだ。・・・」(A)
 「・・・ロンドンでのテンプル騎士団のいくつかの土地は、後に法律家達に貸し出された。
 これが、テンプル弁護士道(Temple Bar gateway)とテンプル地下鉄駅の名前の由来だ。
 また、<ロンドンの>四つの法学院(Inns of Court)のうち、そのメンバーが法廷弁護士となるインナー・テンプルとミドル・テンプルもそうだ。・・・」(D)
 (5)汚名が晴れた騎士団
 「・・・ようやく2005年になって、どうして<モレー騎士団長>があれほど抗議をしたかが判明した。
 バチカンの秘密文書保管所で間違った場所に整理されていた巻物がモレーと彼の同僚達のシノン(Chinon)城(注3)で行われた尋問における宣誓供述であることが分かったのだ。 
 (注3)フランス南西部、ロワール河の支流のヴィエンヌ川沿いの城。12世紀に当時アキテーヌ公爵であった、アンジュー伯(プランタジネット)家のイギリス王ヘンリー2世によって建造され、彼の主要な居城となり、彼はここで亡くなった。彼と彼の子供のリチャード獅子心王(リチャード1世)は、ともにその近傍の寺院に埋葬されている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ch%C3%A2teau_de_Chinon 
http://en.wikipedia.org/wiki/Duke_of_Aquitaine
http://en.wikipedia.org/wiki/House_of_Anjou (太田)
 彼等は、テンプル騎士団への入団式の際に十字架につばを吐き、キリストを非難する(denounce)よう言われたことを認めた。ただし、彼等は心の中ではそのつもりではなかったと宣言した。
 男色については、誰もそれを認めなかったし、誰も頭蓋骨を崇拝などしていなかった。
 シノン羊皮紙の重要性は、それが、法王クレメンス5世がこれらテンプル騎士団員達の罪を赦免し彼等の異端に係るいかなる汚名も晴らした、ということを証明しているところにある。
 それにもかかわらずに行われたところの、この騎士団の解散は、フランス国王がたゆまず続けた作戦の賜だったのだ。・・・」(B)
 「・・・ハーグのこの本は、シノン羊皮紙が発見された以降に書かれた最初のものだ。
 シノン羊皮紙は、最も上級のテンプル騎士団員達の何人かの告発と、1308年に法王クレメンス5世によって彼等に与えられた赦免・・それはフィリップによって無視され、ジャック・ド・モレーは1314年に焼殺された・・について、詳細に記していた。・・・
 このチノン羊皮紙は、彼等が、入団儀式こそちょっとおかしかったけれど、異端として有罪ではなかったことを示唆している。
 ハーグは、「仮にテンプル騎士団員達が異端だったとすれば、彼等は最も首尾一貫しない、かつそれがどんな異端にせよ、その最も説得力のない信者達だったということになる。
 テンプル騎士団は独特のやり方をとるようになっており改革は必要だった。
 しかし、法王はそれだけのことだ、と決定したのだ。」と記している。・・・」(C)
 
3 終わりに代えて
 何冊も十字軍についての本を上梓してきたトーマス・アスブリッジ(Thomas Asbridge)が、またまた十字軍本、’The Crusades: The War for the Holy Land’ を出しました。
 その書評からの引用です。
 「・・・エルサレムがイスラム教徒の地になってから400年も経った1095年、法王ウルバン(Urban)2世は、この地を救えと軍を派遣するよう呼びかけた。・・・
 何千人ものキリスト教徒をして、想像を絶する艱難に直面しつつ彼等にとっての聖なるいくつかの場所を取り戻すことによって救済を得ようという思いで未知の地への旅に駆り立てたものは、まことの宗教的熱情だった。
 しかし、にもかかわらず、その彼等は、途中でビザンツ帝国の東方キリスト教徒達を攻撃したり、彼等のイスラム教徒たる様々な敵と儲かる貿易関係を取り結んだり、彼等が血腥く征服した聖なる諸町にやってきた船一杯の売春婦達を歓迎したりしてのけた。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2010/feb/06/crusades-war-holy-land-asbridge
(2月6日アクセス。以下同じ)
 「・・・告解の秘蹟的(penitential)巡礼というキリスト教的観念に関し、聖なる地において戦争を行うことが含まれるような再定義がなされる一方、イスラム教では、精神的努力ないし聖戦(Jihad)の理想を拡張し、不信心者(infidel)と戦う行為をそれに含めるようになった。
 神学が似通っていたイスラム教とキリスト教のいずれにとっても、頭の中にあった目標(聖なる町エルサレムの支配)は同じだった。・・・
 12世紀に、<あるアラブ人たる>シリアの貴族は、いかに彼が十字軍が占領しているエルサレムの中のイスラム教の聖なるいくつかの場所を自由に訪問できたかを描写している。
 彼は、「私の友人達であったテンプル騎士団員達」が、彼がそこでお祈りをすることができるように、アル・アクサ・モスクの中の邪魔なものを取り除いてくれたことを追想した。・・・」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article6970708.ece
 一神教って本当に紛争のもとですね。
 そして、人間って本当に聖と俗のはざまで生きている生き物なんですね。
 さしずめ、当時の欧州で、「聖>俗」であった象徴がテンプル騎士団であるとすれば、法王のウルバン2世やクレメンス5世は「聖=俗」の象徴、フィリップ4世は「聖<俗」の象徴、といったところでしょうか。
 いずれにせよ、当時の欧州(や中東)に生まれなかった我々は幸せである、と言えそうです。
 
(完)