太田述正コラム#3836(2010.2.17)
<欧州人アーサー・ケストラーの生涯(その3)>(2010.6.20公開)
 (4)老年期
 「・・・<その後、ケストラーは疑似科学的な「研究」成果を発表するようになったところ、>この種「研究」は、彼の真面目な思想家としての評判を傷つけた・・・。
 彼は、英国人が抱く欧州の知識人のステレオタイプ・・止むことなく一見して解がありえない抽象的な諸問題を探求して回る・・の典型を体現化していた。
 彼は、ある時、彼を接待した女主人の愛用していた蓋付きの深皿を、彼女が自由意思についての彼の見解に同意しなければ、板ガラス窓から放り投げると脅したことがある。
 想像できることだが、彼はフランスでは大変な人気があった。・・・」(B)
 「・・・彼が信奉した主義は色々あるけれど、恐らく彼が最も記憶されているのは、その英国における死刑反対運動だろう。・・・
 1956年の夏、保守的な英上院は、(真ん中に陣取った裁判官達によってけしかけられて、)議員提出の死刑廃止法案を葬り去った。
 英国で死刑が停止されるのには、それから更に10年かかった。
 死刑の完全廃止は1970年だった。
 しかし、ケストラーの書いた本、そして彼が始めた運動、が世論の雰囲気を変え、それを可能にしたと一般に考えられている。・・・
 やがて来る彼の死の14年前の1969年には、ケストラーは、英安楽死協会に加わり、自殺幇助を合法化する法案を支持している。・・・」(F)
 (5)死
 「・・・<妻との>自殺協約は、彼の評判を更に落とした。<彼は、妻を道連れに自殺したのだ。>
 彼は、・・・1976年にパーキンソン病と診断され、その3年後には慢性リンパ腫白血病と診断され、(F)・・・死にたいと思う身体的理由があった。
 しかし、彼より20歳よりももっと若い妻は医学的にはどこも悪くなかったのだ。・・・」(A)
 (6)総括
 「・・・<ケストラーを尋問したMI5の>係官は、1940年の報告書で、彼について、「三分の一天才、三分の一悪党、三分の一狂人」という結論を下している。・・・」(A)
 「・・・彼は、常習的な主義者(believer)であり、熱烈なシオニストから反シオニストへ、熱心な共産主義者から戦闘的な反共主義者へ、初期の科学的合理主義の擁護者から超心理学やほとんど一種の進化論否定論(知的設計論=Intelligent Design)にイカれた人へ、と大ぶれを繰り返した。
 こういった知的変節ごとに、ケストラーは、人間の実存に関する包括的解答を探し求めたが、当然のことながらそれを発見することはなかった。・・・」(C)
 
 「・・・包括性(totality)を探し求めたケストラーは、同時に記念すべき、そして時には捕食的な利己主義者であって、母親からは遠ざかり、娘とは連絡せず、要は退屈さから免れるために、愛人をつくっては捨てた。
 人道主義者であることを公言しつつ、彼は、現実の人間の苦しみに対する同情心を示したことはほとんどなかった。
 ベルリンでのジャーナリスト時代のことについて1930年代初頭に書いた時に、彼は、ナチの反ユダヤ主義の高まる潮流についてほとんど言及しない一方で、社会民主党に対しては容赦ない攻撃を行った。
 共産主義に改宗した後に飢饉に襲われたウクライナを旅行した時のことを描写し、彼は、苦しんでいるのは富農だけであると主張した。
 後に、彼が共産主義信条を捨て去った時、彼は大量飢餓のひどい光景を目撃した時のことを回想している。・・・
 <ケストラーのために一言弁ずれば、>漸進的進歩は、安定的な状況においてのみ可能であるところ、戦間期の欧州は、不満を抱く者達が権力を目指して互いに競い合うという、集団同士の戦場だったのだ。
 このような状況においては、 自由主義的改善説(meliorism=人間の努力によって世界が改善されるとする説
http://ejje.weblio.jp/content/meliorism
)は、単にもう一つのユートピアでしかないのだ。・・・」(C)
 「本当のところは、ケストラーは、様々なつかの間の信条の男、しかしそのどの信条も身につかなかった男なのだ。
 彼は無宗教だった。
 彼はまずシオニスト、それから共産主義者、それから超心理学的ミステリーを探し求める者となった。
 しかし、彼は、自分がそれに拠って生きるべき道徳律を持っていなかった。
 彼は、その時々に自分自身のために<都合の良い>道徳律を発明したのだ。
 それが、彼を強い意志と偉大なる頭脳の力の人間、つまりは危険な奴に仕立てた。・・・」(D)
 「・・・その長い生涯において、アーサー・ケストラーは、シオニズムからカトリシズム、更には仏教まで、また反ファシズムから共産主義へ、そして反共主義まで、天文学と進化論から神経生物学や超心理学まで、といった夥しい種類の政治運動、及び宗教的や科学的分野の探索を行った。
 彼の文学的かつ政治的彷徨は、30冊を超える本を生み出した。
 その中には、6冊の小説、4冊の自伝、4冊の科学論文、4巻の論考、3冊のノンフィクション調査ものがあり、このほか、彼は、数え切れない新聞記事を書いた。・・・」(F)
3 終わりに
 ヒットラー(1889~1945年)とケストラー(1905~83年)は、片やユダヤ人迫害者、片や被迫害者であり、ほぼ同時代人であって、絶体絶命となって自裁する時に妻を道連れにした、という点以外に共通点はなさそうに見えます。
 例えば、ヒットラーは、その国民的人気を維持するためにも独身であることを売り物にしていたことから、結果的にエバ・ブラウンという女性との番を貫くことになったのに対し、ケストラーは、カサノバ的女誑しとしての人生を送りました。
 しかし、考えてみると、どちらも女性を蔑視していたからこそ、妻を道連れにした、と考えれば、二人は似通っているとも言えるでしょう。
 思想面でも、ヒットラーは、ファシズム一辺倒であったのに対し、ケストラーはめまぐるしい思想遍歴を重ねます。
 しかし、これも、二人とも包括的なイズムを追求した、という点をとらえれば似通っているとも言えるでしょう。
 結局、差別意識とイデオロギー志向であるというのは大部分の欧州人に共通する属性なのであって、その中で、とりわけこの二人はその典型である、と私には思えてならないのです。
 それにしても、こんなケストラーでさえ、しかも彼が悪党で狂人であることを百も承知しつつ、その天才に注目し、使いこなし、結局彼に英国籍をとらせてしまう英国の懐の深さには、ただただ恐れ入るほかありません。
 
(完)