太田述正コラム#4032(2010.5.26)
<米国の国民性(その1)>(2010.6.26公開)
1 始めに
 米国の国民性についての本が出たとなれば、ご紹介しないわけにはいきますまい。
 クロード・S・フィッシャー(Claude Serge Fischer。1948年~)の ‘Made in America: A Social History of American Culture and Character’ です。
A:http://www.ft.com/cms/s/2/fc7a9a3a-645f-11df-8cba-00144feab49a.html
(5月26日アクセス。以下同じ)(書評。以下同じ)
B:http://www.tnr.com/book/review/the-beauty-history
C:http://shareable.net/blog/is-american-exceptionalism-a-myth
D:http://www.rorotoko.com/index.php/single/claude_fischer_interview_made_america_social_history_culture_character
(本人による解説)
E:http://www.press.uchicago.edu/Misc/Chicago/251431.html
(本からの抜き刷り)
 なお、フィッシャーは、カリフォルニア大学バークレー校の米社会学者です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Claude_S._Fischer
2 国民性論争
 「・・・米国は、主要な欧米諸国の中では目立って普通ではない国だ。
 例えば、欧米人の中で、米国人は、経済的不平等に最も寛容だし、最も宗教的だし、最も愛郷的(patriotic)だし、最もボランタリスト(voluntarist)だ。・・・」(E)
 「<しかし、>多くの学者にとって、米国人の集団的徳性(collective identity)なるものは異端のように聞こえる。
 大部分の学者仲間の間では、「米国の主流(American mainstream)」とか「米国の例外性(American exceptionalism)」とか「大きな物語(grand narrative)」といった文句は敬遠しなければならないものとされている。
 これらの言葉は、特権を有する白人、すなわち多民族的な持たざる者を抑圧し地球全体に無遠慮に超大国的足跡を残したところの、戦闘的愛国者的な歴史の象徴(code)になったからだ。
 これに加え、1960年代からは、新しい社会史家達が、「下からの(bottom-up)歴史」の、政治家と将軍達からなる伝統的な物語<としての歴史>に対する優位を、ハイフォンでつないだ米国人達とアイデンティティー政治の旗の下で、十字軍的に主張してきた。
 彼等は、全員で共有する単一の歴史の年代記を織りなすいかなる試みも、人種主義的で古典主義的な幻想にして文化戦争における保守的策略である、と非難してきたのだ。・・・
 それに対して、フィッシャーは、この’Made in America’の中で、米国の主流は実際存在するし、米国は例外的であり、かつそれは過去3世紀にわたって生き生きと受け継がれてきた、と主張したわけだ。・・・」(B)
3 神話の誤り
 「・・・米国人は、<このところ急に借金中毒になったと思われているが、我々が>借金中毒になって収入を超えて生計を維持するというのは決して我々が考えるほど目新しいことではない。
 マサチューセッツ植民地の司法長官のポール・ダドレー(Paul Dudley)は、18世紀初めに、「人々は…物品購入、建築、雑費、衣料、そして全般的生計において、まかなえる以上の状態に陥ってしまっている。」と嘆いている。・・・」(A)
 「・・・<実は、>個人の借金は、何十年にもわたって実際には減少してきたのだ。
 <そもそも、>多くの初期の白人の植民者達は、北米の諸植民地に(大きな債務を背負った)年季奉公人としてやってきた。
 19世紀には、平均的な米国人はその年間収入の2倍の借金を負っていた。
 これはそれから100年経った<現在の>米国人の25%増し<の水準>だ。
 
 また、<米国人は親切だということになっているが、>初期の米国人達は、老人、貧者、そして病人の世話に余り長けていなかった。
 18世紀の首長達は、捨てられた奴隷達、独身で妊娠した女の子達、盲人達、精神疾患者達、そして面倒を見てもらえない年寄り達に「出て行けと警告し」、彼等をその場所以外の場所であれば、それがどこであれ、彼等がどこから来ようとそこへ追放した。
 
 <昔は>平和で神を恐れる理想的田園<であった、>という幻想について言えば、植民地社会は事実上無法の世界であって、「当局は、人々が喧嘩で暴力沙汰になった時は介入せず、女性への攻撃は取るに足らないものとして取り合わず、幼児殺しは無視した」ものだ。・・・」(B)
 「<米国人は信心深いと思われているが、>植民地人の圧倒的多数は宗教的行事に参加しなかった。
 1900年になるまでは、米国人で特定の教会に属していると認める者は50%にすら達しなかった。
 <それに対し、>2000年には、<米国人の>3分の2が特定の宗派に属していると述べた。それでも1950年の75%よりは下がっているが・・・。・・・」(B)
 では、米国でのお好みの折り紙付きの休日についてはどうだろうか?
 初期のクリスマスは、火の周りでの祝歌といった静かな夜ではなかった。
 それは、酒、賭け事、そして街角での酔っぱらいの喧嘩、といった放蕩三昧のお祭りだったのだ。
 それが、<ディケンズの『クリスマスキャロル』の影響等を受けた>ビクトリア朝的中産階級の増大によって、「この休日が仙骨化(sacralize)され、家庭的にされ、おとなしい家庭的行事」になったのだ。・・・」(B)
 「<また、>米国人は、<昔から一貫して動き回っている(mobile)と思われているが、>18世紀や19世紀の頃に比べると動き回らなくなってきている。・・・」(A)
 「現在の米国人達が、家や土地を変えることは、20世紀中頃の米国人達よりも、また、19世紀初期の米国人達よりも少なくなっているのだ。・・・」(E)
 「<更に、米国は常に暴力犯罪が多かったと思われているが、>暴力犯罪の発生率は短期間で激しく上下してきた。
 それが歴史的な低さになったのは1950年代だが、再び1960年代から80年代にかけて急速に上昇した。
 それから、2000年にはほとんど1950年代の水準まで下降した。
 長い視野で見ると、19世紀あるいはそれ以前よりも、米国人は攻撃されたり殺されたりする危険性が顕著に低下している。
 飲み屋での取っ組み合い、ギャングの攻撃、妻・子供、そして動物への虐待、目を突っつき合う喧嘩、等々の一般文化は雲散霧消したのだ。・・・」(E)
(続く)