太田述正コラム#3932(2010.4.6)
<パール・バック(その1)>(2010.7.25公開)
1 始めに
 私と接点があったパール・バック(Pearl S. Buck。1892~1973年)については、これまで何度も取り上げてきた(コラム#1174、2651、2828、2830、3074、3161)ところですが、このたび、ヒラリー・スパーリング(Hilary Spurling)によって、バックの伝記、’Burying The Bones: Pearl Buck in China’ が上梓されたので、その書評に拠って、改めて彼女の生涯を振り返ってみたいと思います。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/apr/03/pearl-buck-china-hilary-spurling
(4月3日アクセス。以下同じ)
B:http://www.literaryreview.co.uk/showalter_03_10.html
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/7523144/Burying-the-Bones-Pearl-Buck-in-China-by-Hilary-Spurling-review.html
D:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/non-fiction/article7074424.ece?print=yes&randnum=1270304019437
E:http://news.scotsman.com/reviews/Book-review-Burying-the-Bones.6184941.jp
F:http://www.spectator.co.uk/print/books/5879303/pearl-of-the-orient.thtml
2 パール・バックの生涯
 (1)プロローグ
 「・・・バックの最も有名な小説である『大地』はまだ版を重ねているけれど、その著者は「事実上忘れ去られている。彼女はフェミニスト神話においていかなる場所も占めてはいないし、彼女の小説は米国の文学地図から見事なまでに消し去られてしまっている。」・・・」(B)
 「・・・パール・バックは米国人として生まれたけれど、完全な支那人として育った。・・」(C)
→これが、必ずしも正鵠を射ていないことは、このシリーズを最後まで読めば明らかになります。(太田)
 「・・・彼女がそこで育ち、情的と文学的な自身の双方を形作った場所である支那は、彼女を拒絶した。
 支那の知識階級は、彼等の多くの作家達が迷い込むことを避けたところの、貧者の生活の口寄せを<バックがイタコのように>行ったこと(evocation)を冷笑した。
 <中国>共産党は、バックがとりあげた事柄に関して恐らくはより大きな同情を寄せたであろうところ、彼女が支那の農民達を虐げられた階級としてではなく個人個人として扱ったことを軽蔑した。
 このどちらも、支那について書くのは支那人にまかされるべきであるという点では一致していた。・・・」(A)
 「・・・ニューヨークタイムスは、最近、「支那では[バック]は尊敬されているが読まれておらず、米国では彼女は読まれているけれど尊敬されていない」と記した。・・・」(C)
→支那でのバックの評価は変わったのに対し、米国での評価は一貫して変わっていない、ということのようです。(太田)
 (2)『大地』まで
 「・・・バックの父親のアブサロム(Absalom)は、恐るべき福音主義者であり、異教徒達を改宗させようとする彼の決意は彼の7人の子供達のうちの4人の命を奪った。
 この4人は、下痢、コレラ、そしてマラリアで亡くなった。
 何年も彼の家族を蚊だらけの沼地を引っ張り回した後、彼の妻のキャリー(Carie)は我慢の限界に達し、バックが後に思い出したところによれば、彼女のあがめていた母親は怒りで顔面を蒼白にしてこう言った。
 「あなたは北京から広東まで説教してればいいわ。だけど、私とこれらの小さい子供達はあなたとは今後一緒には行きませんからね。私はこれ以上神様のもとに子供達を捧げやしませんから」と。
 バックの亡くなった兄弟姉妹達は、「私には、どちらかと言うと生きているように見えた」と彼女は語っている。
 彼女は、自宅の周りの地で誕生時に自分達の母親達によって殺された女の赤ん坊達の散乱した骨を見出したものだ。
 マーク・トゥエーンは、「あの巨大な帝国」、すなわち支那のことを、「一つの雄大なる墓地だ」と語ったものだ。
 <赤ん坊の時に支那人の乳母からまず支那語を覚えた>バックは、8つになるまで自分は支那人だと思っていた。・・・
 バック自身が小説家になった時、彼女は、<父親が多数の蔵書を有していたところの、彼女が読みふけった>ディケンズがヴィクトリア時代のロンドンで下積みの人々に寄せたのと同様の同情を支那の農村のプロレタリアートたる貧者に寄せた。
 教育のために彼女は米国に赴くが、ヴァージニア州の・・・大学で3年を過ごした後、1914年に彼女は支那に戻り、そこでその後の20年間を送った。
 彼女は、面白みのない農業宣教師たるジョン・ロッシング・バック(John Lossing Buck)という人物と結婚し、<彼の荒々しいセックスに辟易しつつも、>自分が宣教師の良い妻であって彼女の夫と何か共通のものがあると自分に言い聞かせようと努めた。
 しかし、この二つのフィクションはやがて瓦解し、彼女の小説は、繰り返し、性的不適合という女性達にとっての問題を扱うようになる。
 二人の間にできた娘であるキャロル(Carol)は、フェニルケトン尿症(phenylketonuria)という脳症を持って生まれたが、治療可能であったかもしれない初期にそれに誰も気づかなかった。
 しかも、もう子供が産めない身体になったことを知らされたバックは、それからたくさん養子をとることになるのだが、その最初となる、ジャニス(Janice)と言う女の子を養子にとった。
 バックの若い母親時代は、共産党と国民党との暴力的衝突の時代と合致していた。
 彼女は、1927年の「南京事件」の間、外で銃を持った賊徒達が街を包囲攻撃したことに伴う悲鳴に聞き耳を立てながら、7歳のキャロルと2歳のジャニスと一緒に、自宅の裏の小屋で一日立っていた。
 発見されて撃たれるのを恐れて、誰もしゃべったりくしゃみをしたりしなかった。
 一家はそれから日本に逃げた。
 その際、バックは自宅に最初の小説の原稿を残して行ったが、それは永久に失われてしまった。・・・
 <その後、>母親としての罪の意識に打ちのめされながら、バックは9歳のキャロルを米国のある施設に預けた。・・・
 バックの天分は、典型的な支那の物語を欧米の大衆小説(pulp fiction)のスタイルで語ったところにある。
 彼女の散文の美と明晰さは、ある評論家に言わせると、「漢語で考えつつ英語で書いた」結果なのだ。
 彼女の最初の小説である『東風西風(East Wind, West Wind )』(1930年)は、まあまあの成功を収めたが、二番目の『大地(The Good Earth)』(1931年)は何百万部も売れ、1932年のピューリツァー賞をとり、パール・バックという名前は人口に膾炙した。
 この一冊の本の力だけで、1938年に、彼女は女性で初めて、ノーベル文学賞をとることになる。
 2004年にオプラ-・ウィンフリー(Oprah Winfrey)・ブック・クラブによって推薦図書に選定されたことで、この本は、再び米国のベストセラーの首位に躍り出た。・・・
 ・・・どうして、読者達がかつてそうなったように、彼等が再びバックの著書群の虜になったのかを理解するのは、依然として困難だ。
 『大地』は、ある農夫の物語だ。
 彼は、彼の村での飢饉によってせっぱつまり、人力車を引っ張ることで自分の家族を支えようとするのだが、それは大恐慌後の米国と相通ずるものがあり、かつ、世界に支那が本当はどんな所なのかについて幾ばくかのことを伝えた。
 バックは、支那の普通の人々について通暁していた。
 支那のインテリの作家達よりも、どう「人力車を引く少年が考え、感じているか」を知る立場にあったと彼女は主張した。
 こうして彼女は、支那の農民に文学における最初の表現を与えたのだ。
 「生まれと祖先に関しては私は米国人だが、同情と感覚において私は支那人だ」と。・・・」(D)
(続く)