太田述正コラム#3964(2010.4.22)
<ロバート・クレイギーとその戦い(続)(その4)>(2010.8.22公開))
 「松岡<洋右(。1880~1946年。外相:1935~39年
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3 (太田)
)>氏は、日本における議会諸制度に対する確信的な敵であり、ドイツのナチ体制の、恐らくは諸手法ではなく、業績(work)を高く評価していた。・・・
 ただし、彼は、・・・大東亜共栄圏<構想>・・・という狙いが武力によって達成されることを望むような軍事主義者ではなかった。
 私は、彼が戦争という概念を好まないのは、日本の狙いが平和的手段で達成できるとする彼の確信同様、彼の本心だと思っている。
 彼は、まさに、何十年、何世紀の単位で語ったり考えたりするのを常としていたのに対し、彼の過激主義的な支持者達は即時に結果を出すことに恋い焦がれていたのだ。
 彼は、日本は、ドイツと同盟関係を結ぶことで米国を「怖がらせ」、米国に戦争の残りの期間も中立的立場を維持させることができると信じていた。
 また、<同様、>・・・英国の立場を弱体化することによって、東洋全域における英国の政治的影響力と経済的優越(predominance)という地位を日本が<平和裏に>承継することができる、と確信していた。」(227~228)
 「ついには、私に相談することもなく、彼は、欧州における戦争に終止符を打つための仲介者としての彼の奉仕を行う用意があることをイーデン氏に表明する個人的メッセージを送った。
 このメッセージ送付は、英国政府によって、まことに正しくも、明確な仲介の申し出とみなされ、そういうものとして拒絶された。」(228)
→誇大妄想狂的「平和主義者」松岡をクレイギーは的確にとらえています。
 ついでながら、このような時期に長く外相を務めた松岡が日本の議会諸制度に敵意を抱いていた、ということは、裏返して言えば、いかに、当時も日本の議会諸制度が機能していたか、ということを物語っています。
 なお、日本の和平仲介をドイツは歓迎したでしょうが、英国は、そもそも英国がどうして対独宣戦布告をしたかを考えればそんな話に乗るわけがない(後述)ことが分からなかった松岡は、(外交官として支那大陸勤務が長い支那通で、かつ)キリスト教徒でかつ苦学生として米国の大学を出た米国通(ウィキペディア上掲)ではあっても純正アングロサクソンについての通ではなかったということです。(太田)
 「米内<光政(。1880~1948年。首相:1940.1~同年7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%86%85%E5%85%89%E6%94%BF (太田)
)>内閣が倒れる直前の数週間の間に、英国の日本の両政府の間で、ビルマ経由で重慶に物資を供給する道を三ヶ月間閉鎖する協定が交渉された。・・・
 日本の過激派の脅迫的態度に鑑み、そしてまた、当時我々が欧州にいて幸運に突き放されていたことから、我が政府は、この道の交通を7月中旬から10月中旬まで・・そもそも、雨期にはこの道の交通量が通常の10分の1に減るものなのだが・・止めることにし、<英日間で協定が交わされ>た。・・・
 この協定が三ヶ月後に期限切れとなった時、欧州における最大の危機の瞬間は過ぎ去っており、ビルマの道は重大な事件を引き起こすことなく再開された。
 日本陸軍が10月中旬における協定の失効を比較的平穏に受け止めたのは、彼等は、既に<9月に進駐した>北部インドシナにしっかりとした足場を築いていたので、そこのトンキンにおける自分達の航空基地群から<航空機を飛ばして>メコン河にかかる橋々を空爆で破壊でき、そうすれば、その道路が使えなくできると信じたからだ。
 後に(?)この道の通行が空からの攻撃によっても、ワシントンにおける交渉によっても止めることができないことを発見したことが、日本政府が1941年12月に戦争に打って出る決定に影響を与えた諸要素のうちの一つであったに違いない。」(226~227)
→日支事変を日本と蒋介石政権が戦ってきていて、日本が北部インドシナに進駐したというのに、ビルマの道を通じての蒋介石政権への軍事物資提供を再開し、他方、日本に経済制裁を行うことで日本の戦争遂行能力を減殺させようとした英国、しかもそれに米国を巻き込んだ英国に対し、クレイギーが批判的であったことが行間から読み取れます。(太田)
 「1940年9月27日、三国同盟が締結された・・・。
 しかしながら、日本政府が、仮に米国が最終的に・・・欧州での・・・戦争に参加した場合ですら、同同盟条約第3条<=・・・三締結國中何レカ一國カ、現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。・・・
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/sanngokudouei.htm (太田)(注1)
 (注1)この条文(正文は英語)に照らせば、ドイツがソ連を攻撃して独ソ戦が始まったので、日ソ中立条約の有無にかかわらず、日本には対ソ参戦義務は生じず、現に参戦しなかったのに対し、日本が米国を攻撃して日米戦が始まったので、ドイツには対米参戦義務は生じないにもかかわらず、ドイツは参戦した。(松岡に係るウィキペディア前掲)
 後者がドイツの最終的な墓穴を掘ったわけだ。(太田)
の下で、「攻撃(attack)」という言葉の解釈において安全弁があることから、日本が取り返しの付かない形で戦争にコミットした、と感じたわけでは決してないと信じる理由がある。・・・
 かかる観点からして、日本の政策は完全に機会主義的であり続けたのであって、ドイツ政府が、この同盟条約第3条を日本が完全に履行するかどうか全く確信が持てなかったことを示すものは多々ある。
 実際のところ、私は、常に、英国政府と米国政府は三国同盟を深刻に捕らえ過ぎる傾向があり、このことが、後にワシントンで行われた<日米>交渉において両国政府が採択した姿勢に影響を与えたのではないかと感じていた。」(230)
→第3条に果たしてそのような解釈の余地があるのか、はたまた、「信じる理由」をクレイギーが明かしていない、という点がいささか心許ないけれど、一応、クレイギーの結論的見解を信じておきましょう。(太田)
 「<1941年4月の日ソ中立条約締結、そして同年6月の独ソ戦勃発の後、松岡外相>は、日本の陸軍、海軍、そして内閣の多数がヴィシー政府と協定を結んで<南部>インドシナに日本軍部隊を進駐させる決定を下したことを直接の契機として辞任した。
 この計画は、後から考えると日本を世界戦争への最終的な参加へと容赦なく導いた致命的一歩であり、それは、主要な大国との戦争に参加することなく日本の狙いを達成すべきだし達成することができる、とする松岡氏の原則に背馳するものだった。
 彼は、一度ならず、私に、日本軍部隊を南部インドシナに前進させることは、どんな形であれ、深刻な状況を現出させるだろうと語っており、その危機が訪れた時、私は、彼が日本の内閣にこの一歩が大英帝国と米国との戦争を意味する、と訴えたに違いないと思っている。」(232~233)
→日米開戦の方針を知っていた松岡は、12月6日、目に涙をため、「三国同盟の締結は、一生の不覚だった。死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」と語ったが、その3日後(開戦後2日目)付の手紙では、一転、「開戦第一日丈(だけ)の収穫にても、ど偉い事で、恐らく世界戦史特に海戦史上空前の事・・・(ルーズベルト)大統領色を失ふと、伝ふ。左(さ)もありなん・・・痛快、壮快・・・闘ひ抜ひて勝て」と記しています。
 なお、『昭和天皇独白録』には、「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる・・・一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている・・・5月、松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」と書かれています。
 (以上、matsuyama上掲、及び松岡に係るウィキペディア前掲による。)
 こんな松岡のことですから、三国同盟条約についても、条文を都合良く解釈するのはもちろん、条約そのもの破棄したりすることすら厭わないことをクレイギーは知っていた、ということなのかもしれません。
 松岡に対して極めて否定的な昭和天皇、そんな松岡にすら暖かい眼差しを注ぐクレイギー。果たしてどちらがより松岡の本質に迫っているのでしょうか。(太田)
(続く)