太田述正コラム#4008(2010.5.14)
<帝国陸軍の内蒙工作(その4)>(2010.9.21公開)
 「内蒙工作は極秘裡にすすめられ、関東軍司令部の内部でも少数の人びとしかその実情を知らず、陸軍中央部や外務省はまったくカヤの外に置かれていた。」(52頁)
 「陸軍中央部は、関東軍が支那駐屯軍を巻き込んですすめた華北分離工作の既成事実・・・1935年末<の>冀察政務委員会・冀東防共自治政府<の>成立<(注6)>・・・を事後的に追認するほかなかった<が、爾後>・・・関東軍の内蒙工作を条件付きで承認する一方、華北における軍政工作の権限を支那駐屯軍の手に集中し・・・た。その結果、関東軍は・・・急進的な内蒙工作を推進していった。」(161頁)
 (注6)冀察政務委員会・冀東防共自治政府の成立が関東軍の工作によることの根拠を森教授は示していない。それぞれについての日本語ウィキペディア(後出)は、日本側の工作によるものであったかどうかについて、判断を保留している。(太田)
 しかし、関東軍単独での内蒙工作は綏遠事件(Suiyuan Campaign)によって挫折してしまったというのです。
 森教授の本では、上記について、詳細な説明がなされていますが、残念ながら、お世辞にも整理された記述になっていません。
 また、綏遠事件についての日本語ウィキペディアもまことに出来が悪い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%8F%E9%81%A0%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(5月14日アクセス。以下同じ)
 そこで、仕方なく、英語ウィキペディア(全く邦語文献に拠っていない)に拠ってもう少し詳しい説明をすることにしましょう。
 「1933年<5月31日>の塘沽協定(Tanggu Truce)によって帝国陸軍と国民党国民革命軍との間で<満州事変に係る>休戦が、黄海岸の天津から北京までの非軍事地帯<(注7)>が設置される形で実現した。
 (注7)1935年5月に起きた天津における藍衣社のテロ事件(コラム#3780)等を契機に、日本と中華民国の間で6月に梅津・何応欽協定と土肥原・秦徳純協定が相次いで成立し、事実上同地帯が更に拡張されることになる。
 そして、この中華民国軍空白地域を含む河北省の一部に、1935年11月には冀東防共自治政府(North China Autonomous Zone)という事実上中華民国から独立した政府が樹立され、 また、中華民国政府内の自治政府として、この空白地域を含む河北省の一部及びチャハル省の一部に冀察政務委員会が1935年12月に樹立される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E6%9D%B1%E9%98%B2%E5%85%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E3%83%BB%E4%BD%95%E5%BF%9C%E6%AC%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://en.wikipedia.org/wiki/He-Umezu_Agreement
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E5%8E%9F%E3%83%BB%E7%A7%A6%E5%BE%B3%E7%B4%94%E5%8D%94%E5%AE%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%80%E5%AF%9F%E6%94%BF%E5%8B%99%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
 
 日本帝国も中国もこの休戦を公然と破ることは欲しなかったので、紛争の中心は、日中双方の代理的(proxy)諸軍隊がチャハル(Chahar<=察哈爾>)省と綏遠省で暗躍する、内蒙へと移行した。
 1933年から36年の間、日本と提携した徳王(Prince Demchugdongrub)は、チャハル省で独立した蒙古軍政府(Mongol Military Government)を自称し、同政府は全内蒙と外蒙と北支の一部を支配することを目指した。
 1936年11月14日、30人の日本人顧問に支援されたところの、蒙古軍の第7及び第8騎兵師団と王英(Wang Ying<。漢人馬賊にして小軍閥。生没年不詳
http://en.wikipedia.org/wiki/Wang_Ying_(Minguo) (太田)
>)の大漢義勇軍(Grand Han Righteous Army)、及び熱河(Jehol=Rehe)省とチャハル省等からの蒙古人傭兵達の連合部隊がホンゴルト(Hongort)の中国軍の駐屯地を攻撃した。
 数日間の戦闘の後、攻撃側はこの町を占領することに失敗した。
 11月17日、中国軍の反攻が攻撃側を驚かせ、統制の取れない形で退却することになる。
 蒙古軍の混乱に乗じて傅作義(Fu Tso-yi)将軍は、蒙古軍の本拠の百霊廟(Pai-ling-miao)の西側の側翼に回って攻撃を仕掛け、占領し、潰走させ、300人を捕虜にした。
 王英と彼の大漢義勇軍は、百霊廟近くの場所までトラックで移動し反攻をかけたが、12月19日、大部分が捕虜になるか戦死して、この反攻は大失敗に終わった。・・・
 日本の代理的軍隊の敗北は多くの支那人を勇気づけ、彼等は、日本に対する、より積極的な抵抗を求めるに至った。
 この事件が<中国側にとって>成功裏に帰結した直後<の1936年12月12日>に起きた西安事件(Xi’an Incident)<(コラム#178、187)>は、恐らくこの事件によって引き起こされたものだ。・・・」
 (以上、特に断っていない限り下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Suiyuan_Campaign )
 (続く)