太田述正コラム#4048(2010.6.3)
<米国の過去の汚点2つ>(2010.10.6公開)
1 始めに
 たまたま6月3日、米国の過去の汚点に関わる記事が2つ出ていたので、それぞれを紹介しましょう。
2 インディアン迫害
 「・・・その任期の末期にいくつもの汚職の醜聞で押しつぶされそうになっていたユリシーズ・S・グラント大統領は、1870年代中頃に金が発見されたダコタ地区(Dakota territory)に違法に群らがった白人の鉱業屋を処罰する政治的意思を持っていなかった。
 そこは、スー(Sioux)族の居住地であり、紙の上では独立国家だった。
 しかし、グラントにとっては、白人の鉱業屋達に退去するよう説得するよりも、インディアンを追い出すか場合によっては殺戮する方が政治的には楽だったのだ。・・・
 スー族とシャイアン(Cheyenne)族に対する作戦は、米当局によって、無辜の白人の先駆者達をインディアンによる攻撃から守ろうとする努力として描写された。
 しかし、・・・それは、法的に独立した国家に対して、先方から挑発されないのに起こした軍事侵略であって、その地は、その後原住民が立ち退かされた後、初めて米国の一部になったものなのだ。・・・
 カスター(Custer)と彼の部隊が<現在のモンタナ州で>リトル・ビッグホーン(Little Bighorn)川に近づいた時、彼等はその付近の野営地に、カスターが推測したよりも約40から50倍の8,000人前後のスー族とシャイアン族の原住民がいることにはっきり気づいていなかった。
 カスター隷下の二人の指揮官達は、彼を全く信用していなかったので、うち一人はほとんど一日、ウィスキーの瓶を持って溝で過ごしたし、もう一人は何もせずに丘陵の斜面で待機した。
 カスターは攻撃することを躊躇しなかった。
 終わりは、明らかに極めて速やかに訪れた。
 悲鳴と銃の音が平野一杯にこだましたに違いないが、近くにいた米軍部隊の誰もそれを聞いた者はいない。
 彼等は、翌日になって仲間の兵士の200を超える遺体を発見した。
 その中には、神秘的な笑みを浮かべたカスターの遺体もあった。
 この戦いは、神話制作者達の良い材料となり、啓蒙と野蛮との間の英雄的戦いとして描かれることになった。・・・」
http://www.latimes.com/entertainment/news/la-ca-nathaniel-philbrick-20100530,0,3342464.story
→以前(コラム#3473、3475で)触れたカスターの悪行がより具体的にお分かりいただけたことと思います。
 米国の主流派が、政治的または経済的利益のためには法や条約など無視して、自分達よりも弱い者を迫害してきた証左の一つが、この1876年6月25~26日のリトル・ビッグホーンの戦い
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Little_Bighorn
なのです。(太田)
3 禁酒法施行
 
 「・・・米国憲法で市民の権利を制限しているのは二点だけだ。
 14年間近く効力のあった修正第18条は、酒を入手してはならないとし、修正第13条は、奴隷を所有してはならないとした。
 この二つの観念が同等のものとして対置されたことは本当に愕然とする類の話だ。
 米国史におけるアルコールの重要性に鑑みると一層そうだ。
 ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)<(コラム#372、1767、2077、3656)>がマサチューセッツ湾植民地へとやってきた船は、水よりも多量のビールを搭載していた。
 ジョージ・ワシントンは、<独立派の>大陸・軍(Continental Army)の成員一人につき一日4オンスのアルコール飲料を与えた。
 ジョン・アダムス(John Adams)は、強いリンゴ酒を朝食として飲んだ。
 ジェームス・マディソン(James Madison)は、1日1パイント飲んだ。
 この国<の人々>は飲むのが本当に好きだったのだ。・・・
 すべての社会運動の中で、禁酒法(Prohibition)成立にとって決定的だったのは女性参政権運動だった。
 この二つは、直接的な兄弟姉妹関係にあり、憲法にほぼ同時に盛り込まれた。
 19世紀には、女性は、ほとんど法的権利ないし財産権を持っていなかった。
 彼女達の夫達は、飲み屋(saloon)にしけこみ、家族のカネを酒代に費消し尽くし、家に戻ってくると、今度は妻を殴り子供達を虐待していたのだ。
 だから、節酒(temperance)運動が生まれたのであるし、とりわけ女性達と子供達を守るために、この運動に立ち上がる理由がまさにあったのだ。・・・
 ・・・もう一つの憲法修正、すなわち、所得税<を導入した>修正である修正第16条が1913年に通ったが、これが禁酒法の推進を助けた。・・・
 その時まで、連邦政府は、年間収入の40%もアルコール消費税から得ていた。
 <しかし、こうして、>所得税が通ると、改革者達は、・・・憲法修正要求を始め<ることになる>。
 当時は、ビールが主要産業になりつつあった<が、>ビールと蒸留酒産業は、<節酒運動と>戦う<どころか、>自傷行為をやってしまった。
 彼等が何よりも戦ったのは女性参政権だった。
 というのは、<彼等は、>女性達は飲み屋に反対票を投じるであろうことを知っていたからだ。・・・
 第一次世界大戦中、反飲み屋連盟(Anti-Saloon League)は、醸造業者達がパブスト(Pabst)、ブラッツ(Blatz)、そしてアンハイザー・ブッシュ(Anheuser-Busch)といった名前を持っていたことから、彼等にドイツ皇帝の手先というレッテルを貼ることができた。
 これにより、禁酒法修正<たる憲法修正の>承認がほとんど保証されるに至った。
 それは1919年に承認され、その一年後の1920年1月16日に施行された。・・・
 <ただし、>ありとあらゆる免除が認められていた。・・・
 免除のその一は、禁酒法施行時<までに入手して>所有していた酒類すべてについて、それらが自分の家の中にあれば、保有し続けることができ、引き続きそれを飲むことができるというものだった。・・・
 農民が果汁を保存するための免除もあった。
 これは、「自分で使うための強いリンゴ酒をつくるため」の婉曲語法だった。
 宗教上の目的のために用いられる、秘跡(sacrament)用のワイン<も免除されていたが、これ>はひどい話だった。
 <カトリック教会からの特注で一財産築いたワイン製造業者も出た。>
 また、医療目的でアルコールを入手することもできた。
 <つまり、医者に少しカネを掴ませれば、10日ごとにアルコールを処方してもらえたわけだ。おかげで、支店を何十倍も増やすことができた薬局まで出た。>・・・
 こういうわけで、実施されてすぐ、禁酒法は、これらの免除や、密輸、そしてゆるやかな取り締まりによって骨抜きにされてしまった。・・・
 <その結果、>二つの力が働き始めた。
 一つは、要するにうまくいっていないと認められたことだ。
 もう一つは、これが法と秩序への敬意を破壊したと感じた、純粋に憂慮した人々が幾ばくか出現したことだ。
 <実際、>犯罪シンジケートが創り出され、政府の汚職が蔓延した。
 そこへ、1929年に市場が崩壊して所得が下がり始めたために、政府がキャピタル・ゲイン税を4年間徴収できず所得税<収入>も急減した。
 こうして、人々はアルコールを合法化して課税すれば良い収入源となるであろうことを自覚し始めたのだ。
 禁酒法を終わりにする巨大な運動は、おおむねデラウエア州のデュポン一家から資金提供を受けた。
 デュポン一家は、再びビールに課税し始めれば、<自分達が大嫌いな>所得税をお払い箱にできると思ったわけだ。・・・
 <結局、1933年に禁酒法は撤廃された。・・・>」
http://services.newsweek.com/id/238544
→米国はかくも大きな振幅でぶれる国だということです。
 魔女狩り的な極端な風潮が蔓延することのある国でもあるということです。
 また、かかるぶれや蔓延の背後に、経済的欲望が渦巻いていることも忘れてはならないでしょう。(太田)
4 終わりに
 こういう汚点を持つ国に翻弄され続けたのが、戦前の昭和期の日本であったわけです