太田述正コラム#4303(2010.10.9)
<日本人の日本近現代史認識の歪み/皆さんとディスカッション(続x978)>
 (これは、本日講演会(オフ会)で私が行った講演の草稿です。(太田))
 –日本人の日本近現代史認識の歪み–
1 始めに
 日本人の日本近現代史認識を問題にする場合、何をもってその代表例とみなすかは悩ましいところです。
 新聞の社説や世論調査から抽出するという手もありそうですが、ある読者が、手っ取り早いのは教科書ではないか、と言い、ネットで読める日本史の教科書を教えてくれました。
 日本文教出版の中学の歴史教科書です。
http://www.nichibun-g.co.jp/download/c-shakai/h18/honbun/h18rekishi/index.html
 世界史に言及しながら日本史を教える内容になっているので、日本史の教科書と言ってもいいでしょう。
 ちなみに、この読者によれば、これは、日本文教出版が平成21年度より大阪書籍から引き継いだ教科書であって、平成21~23年度用教科書であり、直近の採択率は不明だが、大阪書籍の歴史教科書採択率推定は、2005年度14.0%→2006年度18.0% なので、そこそこメジャーな教科書だった、ということのようです。
 この教科書の明治維新以降の記述を俎上に載せたいと思います。
2 批判的考察
 (1)序
 上記サイトから、幕末以降をダウンロードしたのですが、この教科書、素材としては、興味深い史実が結構盛り込まれています。
 幕末では、「歴史を掘り下げる ~幕府や藩の支配をゆるがした人々~」というトピックスの中で、「経済の自由を求めた人々」と「差別の撤回を求めた人々」が紹介されており、幕末の幕府や藩が民衆からの団体的陳情に結構誠実に対応したことが分かります。
 こういった自由民主主義的土壌の上に、明治維新以降の日本の自由民主主義が花開くわけです。
 「―経済の自由を求めた人々―
 1823年,大阪で,綿問屋たちが幕府役人と手を結び,綿の取り引きを自分たちだけで独占しようとしました。それに反対した摂津や河内の国の786か村の百姓たちは,団結して大阪町奉行所に訴えを起こしました。この訴訟は,たちまち国の規模をこえて1007か村に広がり,「国訴」とよばれるようになりました。訴えを受けた大阪町奉行所は,綿の自由な販売を認め,百姓側の要求が実現しました。
 この勝利で自信を得た百姓たちは,同じ年,今度は1107か村が団結して,菜種油について,油問屋を通さないで自由に菜種が売れ,油も問屋を通さないで直接買えるようにしてほしいと訴え出ました。この要求は何度も差しもどされましたが,あきらめずに訴えつづけ,訴訟に参加した村も1263か村に増えていきました。そして,ついに1865年,菜種を自由に売りさばいてもよいということと,油の値段はその年のできぐあいで決めるということを,認めさせることに成功しました。
  ―差別の撤回を求めた人々―
 1855年,岡山藩は,財政難を解決しようとして倹約令を出しました。とりわけ,「えた」身分の人々に対しては,「新しくつくる衣類は木綿で,しかも無紋・渋染・藍染のものに限る」など,きびしい風俗差別の命令になっていました。そのため,53か村の「えた」身分の人々が団結して反対し,翌年,嘆願書を出しました。しかし,嘆願書が差しもどされたため,20か村あまりから1500人以上の人々が集まって一揆を起こし,3日にわたる交渉の末,藩に嘆願書を受け取らせました。藩は,その後,これらの人々に対する風俗の規制を実施することができなくなりました。
 このように,19世紀の半ばごろから,社会の枠組みをこえて,自由な経済活動や平等な社会を求める動きが盛んになりました。 」
http://www.nichibun-g.co.jp/download/c-shakai/h18/honbun/h18rekishi/rk5_1_2.html
 さて、本題に入りしょう。
 以下、この教科書の問題点として、記述の精粗のアンバランス、戦前と戦後の断絶、戦前・戦後それぞれの時代規定の欠如、の3点をとりあげたいと思います。
 (2)記述の精粗のアンバランス
 目見当なのですが、この教科書、明治維新以降の目次は下掲の通りですが、明治維新から太平洋戦争直前までがMSワードへのダウンロード・ベースで、28頁、太平洋戦争が12頁、戦後が6頁でした。
第5編 近現代の日本と世界
第1章 日本の近代化                 l
地図で見る世界の動き 19世紀後半の日本と世界 l
l
1 欧米の発展とアジアの植民地化 l
歴史を掘り下げる アメリカ合衆国の発展             l
2 近世から近代へ                        l
歴史を掘り下げる 幕府や藩の支配をゆるがした人々        l
3 近代国家へのあゆみ                      l
4 自由民権運動と国会開設                    l
歴史を掘り下げる 日本とトルコの1世紀の年月をこえた国際協力  l
5 日清・日露の戦争と東アジアの動き               l
6 近代日本の社会と文化                     戦
身近な歴史にアプローチ 地域に伝わった外国文化          前
―兵庫県神戸市を例に―                     l
チャレンジ学習 産業を変えた石炭と石油              l
                                 l
第2章 二度の世界大戦と日本                   l
地図で見る世界の動き 第一次世界大戦の国際関係          l
                                 l
1 第一次世界大戦と戦後の世界                  l
2 大正デモクラシーの時代                    l
歴史を掘り下げる 平等な社会をめざして             l
3 世界恐慌と日本                        l
4 中国との全面戦争                       l
5 第二次世界大戦と日本                     –
身近な歴史にアプローチ 戦争体験の聞き取りをしよう       
―大阪市を例に―                        戦
チャレンジ学習 戦争と被害者の救済               争
                                 —
第3章 新しい日本と世界                     l
地図で見る世界の動き 第二次世界大戦後の世界           l
                                 l
1 平和と民主化への動き                     戦
2 国際化する世界と日本                     後
歴史を掘り下げる アイヌと沖縄の20世紀             l
身近な歴史にアプローチ 公害をのりこえた地方自治体        l
  ―福岡県北九州市を例に―                    l
チャレンジ学習 人と作物とのかかわり              l
 最初に気が付くことですが、この教科書をつくった人々、太平洋戦争に強迫観念でも抱いているのか、と言いたくなりませんか?
 いくら日本人だけでもウン百万人死んだと言っても、わずか3年8ヶ月間・・終戦が8月15日ではなく9月2日としても、わずか3年9ヶ月間・・のことですよ。
 次におかしいのが、戦前と戦後とで分量にバランスが全くとれていないことです。
 戦前は1868年から1941年までの73年間であるのに対し、戦後は1945年から2010年までの65年間・・厳密にはこの教科書を作成した2008年までの63年間ですが・・ですから、ほぼ同じくらいの年数だと言ってよいのです。
 ところが、ページ数では、前者が後者の実に5倍近い分量になっています。
 これはおかしいと思いませんか?
 歴史って、最近になればなるほど、より多くのことが分かっているということもあるけれど、最近のことほど、現在を理解するためには重要なはずですよね。
 私の理解では、こういうことではないでしょうか。
 この教科書は、日本の歴史は太平洋戦争で終わっている、という、戦後日本人の(潜在的な)歴史認識を忠実に反映している、ということです。
 やや誇張して申し上げますが、年表が意味を持つのは、広義の政治、とりわけ対外的な政治であるところの外交や戦争、に関してのみであると言っても過言ではないところ、年表が意味を持つ歴史らしい歴史とは、端的に言えば、外交・戦争史である。しかるに、戦後の日本は、後述するように、米国の属国となり、外交の基本及び戦争を放棄してしまったので、そのような意味における歴史を持たない。だから戦後についての記述が著しく少なくなってしまう。ということだと私は思うのです。
 そう考えれば、太平洋戦争が詳述されるわけが分かりますよね。
 なんとなれば、それは、この教科書をつくった人々にとっては、少なくとも潜在意識において、日本の歴史を事実上終わらせた黙示録的大事件だったからです。
 (3)戦前と戦後の断絶
 ここから、戦前と戦後は断絶したものとして描かれることとならざるをえません。
 当然、榊原英資や私の主張であるところの、日本型経済体制が戦前末、戦中、戦後を貫いていることはもとより、私の主張であるところの、戦前の日本の安全保障政策が戦後基本的に米国によって継受されたということ、に目が向けられることはないのです。
 それどころか、「日本の占領と民主化」という表題の下、「総司令部は,・・・治安維持法を廃止して政治活動の自由を認め,選挙法を改正して20歳以上の男女に選挙権をあたえました。また,労働者の団結を認めた労働組合法や,労働条件の最低基準を定めた労働基準法も制定されました。・・・総司令部による改革にともなって,民主化をめざす国民の運動が進められました。」と記述しており、これらが、戦前・戦中の延長線上の措置であるにもかかわらず、あたかも革命的な措置であるかのような印象を与えてしまっています。
 ところで、「1943年・・・に<有事であることから>「陪審法ノ停止ニ関スル法律」によって<、1928年に導入されていたものの、様々な制約があったために余り活用されてこなかったところの、刑事>陪審制が停止されることになった。同法は附則3項において「今次ノ戦争終了後再施行スル」と規定していたが、ダニエル・H・フット によれば、「終戦後、占領軍は日本における<民事陪審制の導入はもとより、刑事>陪審制の復活を強くは主張せず」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%AA%E5%AF%A9%E5%88%B6
ということもあり、陪審制は復活しないまま推移することになります。
 ちなみに、米国統治下の沖縄では陪審制がとられていました。
 これは、フットや丸田隆によれば、「アメリカ植民地では、陪審制は、・・・18世紀半ばにイギリスの支配に対する批判が高まってくるにつれて、本国の圧制に抵抗する手段としての役割を果たすようになった。・・・これに対し、イギリスは陪審審理を用いない特別裁判所を設置したが、これに対する不満も、アメリカ独立戦争に向かう一つの要因となった。アメリカ独立宣言でも、イギリス国王が「多くの事件で、陪審による審理の利益を奪ったこと」を非難している」(ウィペディア上掲)という、米国史における陪審制の重要性に鑑みると、日本の主権を制限した日本国憲法の下、日本を米国の属国化することで日本の統治機構を半永久的に上からコントロールし続けることを意図した当時の米国が、陪審制が、下からの日本「独立」のための手段として機能することを恐れたからであろう、と私は考えています。
 (参考1)米独立戦争(1775~83年)が始まる2年前の後に建国の父と呼ばれることになる一群の人々の中の2人の文章より。
 ジョン・アダムス:“Representative government and trial by jury are the heart and lungs of liberty. Without them we have no other fortification against being ridden like horses, fleeced like sheep, worked like cattle and fed and clothed like swine and hounds.”
 トーマス・ジェファーソン:“I consider trial by jury as the only anchor ever yet imagined by man, by which a government can be held to the principles of its constitution,”
http://www.fairplay.org/jury/whitepaper.html
 そう考えれば、陪審制が復活されないままとなったことは、名実ともに日本における自由民主主義の後退を意味していたことになりますが、陪審制の話は、この教科書には、一切出てきません。
 この関連で、ちょっと脱線させてもらいますが、ご案内のように、2009年から陪審制ならぬ裁判員制度が導入されたところ、「裁判員制度が米国の陪審員制度とは異なり「民事事件に適用されない」とされたのは、米国資本の日本進出にあたってアメリカの国益を守るために、米国企業が対象となる可能性の少ない殺人などの刑事事件に絞った・・・。アメリカ企業が外国企業と争う裁判で、アメリカの陪審員がアメリカ企業に有利な判決を下すケースが多く、日本企業の多くが特許裁判などのアメリカの裁判で米国民の陪審員に不利な判決を下され巨額の賠償金を取られてきたことから、裁判員制度において日本においてアメリカ企業が逆の目に遭うことを心配してい<た>という」指摘が関岡英之によってなされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%93%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6
 戦後一貫して日本が米国の属国であったことがこんなところにも影を落としているわけです。
 さて、元に戻りましょう。
 教科書の先ほどのような占領時代の記述を読まされれば、生徒達の大部分は、日本の自由民主主義は占領軍が与えたものである、と誤解してしまいかねません。
 ブッシュ前大統領を始めとして、米国人にはそう思い込んでいる人が少なくないわけですが、このような教科書の記述のせいでしょうか、日本人にもそういう人が時々いて、びっくりしてしまいます。
 何度も申し上げているように、さすがに戦前の大正デモクラシー以降の日本が自由民主主義[的な]国であったということは大部分の日本人にとっては常識です。
 しかし、ゴードン・バーガーや古川隆久が指摘しているところの、日本が戦中も自由民主主義[的な]国であり続けた、という事実を知らない日本人が多いのは悩ましい限りです。
 (4)戦前・戦後それぞれの時代規定の欠如
 
 この教科書は、明治維新から第一次世界大戦前までを「日本の近代化」の章と「二度の世界大戦と日本」の章に分けていますが、前者は時代規定的表現なのに、後者は年表的表現であり、また、後者については、上で述べたことに照らせば、太平洋戦争は別の章にしなければ、この教科書をつくった人々の潜在的歴史認識とも合致していないと言わざるをえません。
 こんな非論理的な章立てになってしまったのは、「近代化」が安全保障上の必要性に迫られたものであったことを見据えていないからだと思うのです。
 そもそも、江戸時代において、脅威と認識されたのは日本のすぐそばにまで、地続きで膨張してきたロシアでした。
 幕末、横井小楠(1809~69年)が、「国是三論」(1860年)において、「米国については、「メリケンにおいては・・全国の大統領の権柄賢に譲りて子に伝えず、君臣の義を廃してひたすら公共和平をもって努めとし・・」とし、「イギリスにあっては政体一に民情に本づき、官の行なうところは大小となく必ずことごとく民に議り、その便とするところに随ってその好まざるところを強いず。・・これにより魯と戦い清と戦う兵革数年、死傷無数、計費幾万はみなこれを民に取れども、一人の怨嗟あることなし」とし、米英を親近感をもって褒め称える一方、清に対しては直裁的に、そしてロシアに対しては暗黙裏にその反自由・民主主義性に嫌悪感を示した上で、「魯もし志を支那にほしいままにすることを得ば実に獲るべからざるの強盛をいたすべし。英の畏憚するもまた宜なり」と述べ、「日本咽喉の地にありてその響背大いに<英魯>二国の強弱に関係すれば、二国必ず日本を争うべければ日本の危険もっとも甚しというべし」とロシア脅威論を展開し、日本も米英に倣って自由・民主主義的政体を採用し、かつ米英と提携しつつ富国強兵に努め、支那の覚醒を促すとともに支那をロシアから守るべきことを勧め」(コラム#1609)ました。
 そして、このような認識が日本人の間で広く共有されるに至ります。
 私は、それを横井小楠コンセンサスと名付けたところです。(コラム#1613)。
 明治維新以降の日本は、この横井小楠コンセンサスを堅持して太平洋戦争まで、ひたすら一所懸命に走り続けるのです。
 ちなみに、英国は、次第に弱体化しつつも、1937年の日支戦争勃発の頃までは、この日本の国家戦略に理解を示し、日本を支援し続けたのに対し、米国は、日露戦争まではこの国家戦略に理解を示し、支援したものの、その後は日本の足を引っ張り続けるわけです。
 そこでまとめますが、私見では、戦前の日本については、太平洋戦争の終結に至るまで、ロシア・・ロシアが生み出した、民主主義独裁の独特のシステムを含む・・の脅威への対処、をもって時代規定とすべきなのです。
 そのような時代規定をしない限り、戦前の日本の内政や対外政策をまともな形で理解することはできない、と言いたいところですね。
 次に戦後についてですが、第3章の「新しい日本と世界」ってのは第1章、第2章のネーミングよりも更におざなりですね。
 全く無内容であると言っていいでしょう。
 それでは、戦後を時代規定するとしたら何でしょうか。
 太田コラムの読者なら、どなたでも「属国」(教科書的には「保護国」)だろうとお答えになるでしょうね。
 そのとおりです。 
 戦後、米国は、いわば横井小楠コンセンサスを日本から継受し、東アジアならぬ全球的に、ロシアの脅威に対処する国家戦略を展開し、戦後史を刻んで行くわけです。
 その米国の属国たることを自ら選択した日本は、宗主国に庇護された形で、ハイポリティックスを放棄したエコノミック・アニマルとして、歴史のない無明界に漂い続けて現在に至っている、ということになりましょうか。
 その結果が、日本における、現在の脳軟化症であり退廃・腐敗である、ということでしょう。
3 終わりに代えて
 本日俎上に載せた教科書の「第1章 日本の近代化」の「4 自由民権運動と国会開設」の中に、
 「日本に憲法が制定され,法律の整備が進むようになると,イギリスは,ロシアの東アジアへの進出に対抗するために,日本と手を結ぶ政策をとるようになりました。その結果,1894年の日清戦争開始直前にイギリスとの条約改正に成功し,治外法権は,その他の国々もふくめ,日清戦争後に撤廃されました。しかし,経済発展に必要な関税自主権の完全な回復は,日露戦争後の1911年のことでした。」
という記述が出てきます。
 このくだりを読んで改めて思ったのですが、日本の戦前も戦後も、形こそ違えども、主権が制限されていたところから出発したわけですよね。
 ところが、戦前の日本は、ごく初期においてこそ、法律や近代的社会制度の整備が遅れていたことから主権回復を逡巡したものの、その後は、世論のつきあげもあって、政府は主権の回復に全力をあげた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E7%B4%84%E6%94%B9%E6%AD%A3
というのに、戦後の日本では、占領終了前後のごく初期において、吉田茂が主権回復を逡巡したところ、その後、主権回復への動きが全くと言ってよいほど見られないまま現在に至っているというのですから、無惨な話です。
 戦前において、英国は、中央アジアをめぐっての独裁国家ロシアとのグレート・ゲーム(Great Game)・・おおむね、1813年のロシア・ペルシャ条約から1907年の英露協定(Anglo-Russian Convention)までのロシアとの強い対峙と1917年のロシア革命から1940年のソ連の連合国入りまでの民主主義独裁国家ロシアとの弱い対峙・・
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Great_Game
という、自国の自由民主主義的国家戦略が、横井小楠コンセンサス下の日本の自由民主主義的国家戦略と合致したため、日本の主権回復を後押ししたわけです。
 (参考2)ロシア・ペルシャ条約(Treaty of Gulistan):第一次ロシア・ペルシャ戦争の結果、1813年1月1日に(現在のアゼルバイジャンの)グリスタンでロシアとペルシャの間で締結された条約。現在のアゼルバイジャン、ダゲスタン、グルジア東部を正式にロシア領とした。条約案文は、ペルシャ宮廷に大きな影響力があり、両国の仲介者となった、英国の外交官、ゴア・アウスレー(Gore Ouseley)が起草した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Gulistan
 (参考3)英露協定:勃興するドイツとその3B中東政策を念頭に置きつつ、ロシアと英国のイランにおける勢力範囲とその間の緩衝地帯を定めるとともに、アフガニスタンを英国の保護国とした協定。その結果、英露協約(Anglo-Russian Entente)が成立した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Russian_Entente
 (参考4)グレート・ゲームの最中に起こった1853~56年のクリミア戦争は、オスマントルコ、就中パレスティナのキリスト教聖跡の管理権を巡るギリシャ正教のロシアとカトリシズムの欧州(フランス、サルディニア)との紛争を契機として勃発したが、英国においては、独裁国家ロシアと(弱体化したオスマントルコ支援のために立ち上がった)自由民主主義[的]国家英国との戦いと認識されており、この戦争に敗れたロシアは、以後1世紀にわたって中欧における支配的影響力を失った。
http://www.ft.com/cms/s/2/a962b144-d263-11df-9e88-00144feabdc0.html
http://encyclopedia2.thefreedictionary.com/Cremean+War
 それに対し、戦後においては、占領当局たる米国が、1950年の朝鮮戦争勃発を契機に、せっかく、日本を自国のまともな同盟国に育て上げるべく日本の主権回復を強く求めた・・軍隊を保有した形で日本に全面的主権回復をさせようとした・・というのに、日本は、それを拒否し、制限付きの主権回復に固執し、占領終了後も自ら己に制限を課したまま現在に至っている、というわけです。
 それにしても、日本はもとより、英国と比べても、米国のロシア政策の一貫性のなさはひどいものでした。
 しかし、この話を始めるときりがありません。
 とりあえず、本日はこれくらいで終わらせていただきましょう。
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–皆さんとディスカッション(続x978)–
<ΗδΗδ>(「たった一人の反乱」より)
 ノーベル平和賞に劉暁波氏 投獄中の中国民主活動家
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/101008/erp1010081805006-n1.htm
 おもしろくなってきたど。
<太田>
 本件に関する記事、コラム中、参考になりそうなものを抜粋してみました。
 米国の主要メディアは浮かれています。その典型例がこれ。↓
 ・・・in the long term, a wide spectrum of Chinese and foreigners said, Liu’s award could resonate more deeply within China than any similar act in years – significantly more than the Nobel Peace Prize awarded to the Dalai Lama in 1989, say, or the Nobel Prize in Literature given to dissident writer Gao Xingjian in 2000.
 In the first place, Liu’s status as the first mainland Chinese citizen to win a Nobel prize matters deeply in a nation that craves recognition by the West. (The Dalai Lama – who on Friday urged China to free Liu – has refugee status. Gao is a French citizen. And several Chinese-born physics prize winners, including Daniel Tsui in 1998 and Charles Kao last year, have also taken on other citizenships.)
 Second, Liu is profoundly moderate. Unlike the exiled dissident Wei Jingsheng, who criticized Liu on Friday for being too understanding of the Chinese Communist Party, Liu has never advocated revolution. As such, he has escaped the sentence of irrelevance meted out to so many of his dissident contemporaries. ・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/08/AR2010100801502_pf.html
 例によって能書きを垂れてるよ。
 ま、僕もそう言いたいところだが・・。↓
 ・・・The refusal of China’s leaders to subject themselves to law at home reinforces suspicions that it will not play by the rules abroad, either — not in trade, or finance, or respect for other nations’ sovereignty.・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/08/AR2010100803707_pf.html
 中共内のインターネットに、結構受賞を喜ぶ声も寄せられてるみたいね。↓
 ・・・The Internet, the vehicle that carried Charter 08 to prominence, simmered with Chinese support for Mr. Liu early Friday night despite extensive government filtering. Liu Xiaobo was the most common topic on Sina.com’s Weibo, a popular microblog forum. Microbloggers burned with enthusiasm for the prize and hurled invective at the government: “Political reform and the Nobel Prize, is this a new start? This day has finally come,” wrote a user named Nan Zhimo. Another user, Hei Zechuan, said: “The first real Chinese Nobel Prize winner has emerged, but he is still in prison right now; what a bittersweet event.” ・・・
http://www.nytimes.com/2010/10/09/world/asia/09beijing.html?_r=1&hp=&pagewanted=print
 ・・・ on the Internet, people were sharing her husband’s poems, some of which were written for her<(劉暁波の奥さん)>.
 ”You in a far place / with nights of love stored away.”
 And: “Abandon the imagined martyrs / I long to lie at your feet.”・・・
http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-liu-profile-20101009,0,7600092,print.story
 ノーベル平和賞が投獄されてる人物に授与されたのはこれで三回目だというのだが、一回目、カール・フォン・オシエツキーに授与されたのは特にすごいねえ。
 ナチスドイツがノルウェーに侵攻して占領したのは、そのうらみを晴らすため・・じゃあないだろうけど・・。↓


 ・・・He is one of three people to have received the prize while incarcerated by their own governments, after the Burmese opposition leader Aung San Suu Kyi in 1991, and the German pacifist Carl von Ossietzky<(注)> in 1935. ・・・
 Headlines about the award were nowhere to be found in the Chinese-language state media or on the country’s main Internet portals. Broadcasts about Liu Xiaobo (pronounced Liew Show Boh) on CNN, which reach only luxury compounds and hotels in China, were blacked out throughout the evening. Many mobile phone users reported not being able to transmit text messages containing his name in Chinese.
But on government-monitored microblogs like Sina.com, which regularly blocks searches for his name, the news still generated nearly 6,000 comments within an hour of the announcement. ・・・
http://www.nytimes.com/2010/10/09/world/09nobel.html?ref=world&pagewanted=print
 (注)He was convicted of high treason and espionage in 1931 after publishing details of Germany’s alleged violation of the Treaty of Versailles by rebuilding an Air force, the predecessor of the Luftwaffe and training pilots in the Soviet Union. In 1990 his daughter, Rosalinde von Ossietzky-Palm, called for a resumption of proceedings, but the verdict was upheld by the Federal Court of Justice in 1992 in a decision that is final.
http://en.wikipedia.org/wiki/Carl_von_Ossietzky (太田)
 ↑中共当局があれだけ本件関係の情報遮断に努めてるというのに、何でそもそもインターネットが「放置」されてるんだ?
 英ファイナンシャルタイムスの社説は、中共当局のアホさかげんと不安感を指摘してます。↓
 ・・・What happens next will depend on Communist party rulers now smarting with embarrassment. They had made a prize for Mr Liu more, not less, likely, by clamping down so hard on him. In the mould of other authoritarian regimes, Beijing put pressure on Oslo not to give him the prize, betraying the insecurity behind the facade of strength. If China now snarls at the outside world ? or worse, punishes other dissidents ? it will set back a long way the respectable global image it so craves.・・・
http://www.ft.com/cms/s/0/95db3fa6-d30d-11df-9ae9-00144feabdc0.html
 しかし、いつもながらガーディアンには脱帽だ。
 同紙掲載のこのコラムは、中共国民は度し難いと今後の暗転を予言しています。
 私もそんな気がするなあ。
 だからこそ、アジアの、しかも隣国の日本が、支那の自由民主主義化に最大の支援の手を差し伸べなければならないのです。↓
 ・・・Beyond doubt, though, it will strengthen the argument, within China, that the west is determined to derail China’s progress by promoting internal strife.
 It would be a grave mistake to think that this is believed only by old, die-hard Marxists, militarists and proto-fascist nationalists. Many educated young Chinese people, who are perfectly capable of thinking for themselves and are, by no means, stooges of the Communist party, are highly sceptical of western prescriptions for China, and want to find a distinctively Chinese, perhaps “Confucian”, form of democratisation. Those who have studied in the west, and had a chance to see our warts as well as our freedoms, are among the least inclined to believe that westernisation is the right road for China.
 Symbolic gestures such as the Nobel award for Liu help to persuade such young people, who will be China’s next generation of political and business leaders, that the west really is fundamentally anti-Chinese and determined to keep China down. And that heightened tension is likely to prolong, not shorten, the Communist party’s rule: a strange harvest for a prize given in the name of peace.
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2010/oct/08/liu-xiaobo-china
<けいc。>
 アメリカ政府が空軍のカビが生えたような戦略爆撃機B-52の装備近代化に119億ドルの予算をつけたニュースです。
 今のレートだと1兆円切りますが、それにしても2040年まで作戦使用できる状態にする・・。↓
 ・・・and other programs critical to maintaining B-52 mission capability out to the year 2040.”
http://www.dodbuzz.com/2010/10/07/why-the-b-52-got-11-9-billion/?wh=wh_lead
 しかし予備役編入した機も含めて70機以上あるわけですから、
http://en.wikipedia.org/wiki/Boeing_B-52_Stratofortress
航空優位をカンタンに奪取できる対イラン・北朝鮮の軍事作戦においてはアメリカは万一の時に政権転覆させる気満々ということだと思いますが、MDAで核対峙している対中露戦略において、ステルス爆撃機等を保持するアメリカがB-52のような戦略爆撃機を維持する合理性はあるのでしょうか?
<太田>
 面白い情報をありがとうございました。
 ご自分で問いにお答えになっているのでは?
 それでは、その他の記事の紹介です。
 さあねえ?
 僕は、オバマへの影響は親父よりライト牧師の方が圧倒的に大きいと思うがね。
 ただし、オバマが黒人としてのアイデンティティーを持ったことには親父の影響があった気がする。↓
 ・・・Barack Obama Sr., the president’s father. Obama gets his identity and his ideology from his father. Ironically, the man who was absent for virtually all of Obama’s life is precisely the one shaping his values and actions.
How do I know this? Because Obama tells us himself. His autobiography is titled “Dreams From My Father.” Notice that the title is not “Dreams of My Father.” Obama isn’t writing about his father’s dreams. He is writing about the dreams that he got from his father.
 In his book, Obama writes, “It was into my father’s image, the black man, son of Africa, that I’d packed all the attributes I sought in myself.” Those who know Obama well say the same thing. His grandmother Sarah Obama told Newsweek, “I look at him and I see all the same things — he has taken everything from his father . . . this son is realizing everything the father wanted.” ・・・
 Obama’s actions is that he is, just like his father, an anti-colonialist. Anti-colonialism is the idea that the rich countries got rich by looting the poor countries, and that within the rich countries, plutocratic and corporate elites continue to exploit ordinary citizens. ・・・
 Barack Obama Sr. became an anti-colonialist as a consequence of growing up in Kenya during that country’s struggle for independence from European rule. Obama Sr. also became an economist and embraced a form of socialism that fit in well with his anti-colonialism. All of this is relevant and helpful in understanding his son’s policies. ・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/07/AR2010100705485_pf.html
 ヴィヴァルディの失われていたフルート協奏曲が発見されたとよ。
 その一部を聴くことができる。↓
http://www.bbc.co.uk/news/uk-scotland-edinburgh-east-fife-11491307
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 一人題名のない音楽会です。
 田中香織(コラム#4289)のアンコール曲2曲のうちの1曲がモシュコフスキ(Moritz Moszkowski。1854~1925年。ポーランド・ドイツ・ユダヤ系のピアニストにして作曲家)
http://www.8notes.com/biographies/moszkowski.asp
の「火花」※であったことに触発され、モシュコフスキの特集を2回にわたってお送りすることにしました。
 お急ぎの方は、●だけでもどうぞ。
作品36 4番(En Automne) ピアノ独奏(以下同じ) Gabrilowitsch
http://www.youtube.com/watch?v=bqcFxQmcwUo&feature=related
●作品36 第6番(火花=Etincelles)※ ホロヴィッツ この時90歳超えてたんだってさ。まいっちゃうね。
http://www.youtube.com/watch?v=75ZAOwgzoAE&feature=related
練習曲 作品24 1番 Mark Hambourg
http://www.youtube.com/watch?v=qbS9fbMGf4s&feature=related
練習曲 作品72 1番 Dimitris Sgouros
http://www.youtube.com/watch?v=JehtF6bzkXY&feature=related
練習曲 作品72 2番 Antonio Pompa
http://www.youtube.com/watch?v=JS1Vp412zQI&feature=related
●練習曲 作品72 6番 ホロヴィッツ ピアノの最高速での演奏がどんなものか分かるよ。
http://www.youtube.com/watch?v=XLym6tuh_T4&feature=related
●練習曲 作品72 11番 同上 神の領域。
http://www.youtube.com/watch?v=izXW3N4tKP4&feature=related
練習曲 作品72 13番 Silvio Mauri
http://www.youtube.com/watch?v=j0V17h5jqdA&feature=related
練習曲 作品92 2番(左手だけで演奏される) Alain Raes 信じられないぜ。
http://www.youtube.com/watch?v=Dy2hn8grHEE&feature=related
編曲 Chanson Boheme de L’Opera Carmen de Georges Bizet SETA TANYEL
http://www.youtube.com/watch?v=tZMXTi9fG0I&feature=related
●スペイン奇想曲 作品37 Josef Hofmann この軽やかな演奏は絶品。
http://www.youtube.com/watch?v=gsmp8w7ycvQ&feature=related
同上 アコーディオン独奏 Danijela Mesanovic お見事!
http://www.youtube.com/watch?v=6PqBxsYaI_0&feature=related
 連弾っていいなーと思いますねえ。↓
スペイン舞曲 1番 ピアノ連弾→+カスタネットへの編曲
http://www.youtube.com/watch?v=dFya0QN7mc8&feature=related
スペイン舞曲 2番 ピアノ連弾
http://www.youtube.com/watch?v=P58X6J726zE&feature=related
スペイン舞曲 3番 ピアノ連弾
http://www.youtube.com/watch?v=GKZaVLA77e4&feature=related
スペイン舞曲 4番 ピアノ連弾→オーケストラへの編曲
http://www.youtube.com/watch?v=lXr8aps2fHw&feature=related
スペイン舞曲 5番 ボレロ ピアノ連弾
http://www.youtube.com/watch?v=GkNgFulVE7s&feature=related
(続く)
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太田述正コラム#4304(2010.10.9)
<2010.10.9オフ会次第>
→非公開