太田述正コラム#4116(2010.7.7)
<原爆論争(その6)>(2010.11.13公開)
 (4)「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」フォーラム(2007年)
 ニュー・オーリンズ大学のアラン・ミレット論考は、2007年2月に行われた防衛研究所戦史部戦史部主催のフォーラム「太平洋戦争の新視点-戦争指導・軍政・捕虜-」に提出されたものなのですが、このフォーラムに提出された他の論考からの抜粋をご紹介しましょう。
http://www.nids.go.jp/event/forum/j2007.html
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_02.pdf
(7月4日アクセス。以下同じ)
 なお、保阪正康の「「アッツ玉砕」に見る戦略思想」にはご紹介すべきものが何もありませんでした。
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_03.pdf
 戸部良一「日本の戦争指導-3つの視点から-」の抜粋紹介
 「・・・仮に、戦争目的を「自存自衛」に限定すべきだとする主張を「自存自衛論」とし、これに対して2つの戦争目的を並置しつつ「大東亜新秩序建設」を強調する立場を「アジア解放論」とすると、陸軍はこの2つの主張に分裂し、海軍は「自存自衛論」にほぼ一本化されていたと見ることができる。・・・
 開戦時の政治指導者の多くは「アジア解放論」の立場であったと見られよう。・・・
 宣戦の詔書は「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」と述べて、「自存自衛論」の立場を表明した。ところが、開戦直後、大東亜戦争という呼称が正式決定されたことを受けて、情報局は<1941年>12月12日、「大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」と説明し、「アジア解放論」を謳ったのである。・・・
 実際には「自存自衛」から「大東新秩序」への戦争目的の拡大が戦争指導に禍いをもたらした形跡はほとんど見当たらない・・・。・・・
 「アジア解放論」の目的に透徹し、それを一貫させなかったことのほうが問題であった。そして「自存自衛論」は「アジア解放論」を制約してしまった。例えば、「自存自衛論」の立場に立つ海軍は、軍事戦略的理由に基づき、担当占領地域の独立付与について消極的であった。
 波多野澄雄氏は、東條首相のビルマやインドへの独立の呼びかけがイギリス屈服を目指す対英政治戦略の一環でしかなかった、と論じている。たしかにそうであったろう。
 しかし、たとえ政治戦略の一環であっても、それを徹底して追求しなかったことが日本の戦争指導のひ弱さに通じていたのではなかろうか。むろん、自らの内に植民地を抱える日本が「アジア解放」を唱えるのは偽善的であったに違いない。だが、たとえ偽善的であっても、「アジア解放」の理念性を意識的に利用し、政治戦略としての有効性を充分に活用することが、戦争指導に求められたのではなかったか。しかも、それを勝ち戦のときに実践することが望ましかった。・・・
 重光葵・・・は1943年4月に東條内閣の外務大臣に就任すると、大東亜新政策を掲げ、同年11月大東亜会議を開催して大東亜共同宣言を発表した。それまで、しばしば曖昧に語られ、ときには矛盾する意味さえ付与されてきた「アジア解放論」は、大東亜共同宣言によって明確かつ具体的な内容を持つものとなったと言えよう。・・・
 大東亜共同宣言が戦争指導に動揺を与え、戦争終末の捕捉を難しくした事実もほとんどなかったと言ってよい。例外があったとすれば、インド解放という大義がインパール作戦の実施を後押ししたくらいである。インパール作戦を例外とすれば、大東亜共同宣言に盛り込まれた戦争目的が戦争指導に動揺を与えることはなかった。・・・
→太平洋戦争は、安全保障(自存自衛)のために、ソ連との冷戦の貫徹とそのための支那の無害化を図ろうとした日本の足を引っ張り続けた英米に対する日本の膺懲戦争であり、「自存自衛」は英米両国に対する共通の開戦事由であったのに対し、「アジア解放」は、対英に焦点をあてた開戦事由でした。
 日本は、「自存自衛」戦としての太平洋戦争には敗れたけれど、「アジア解放」戦としての太平洋戦争には勝利した、と言ってよいでしょう。
 もっとも、戦後、米国が日本に代わって日本の「自存自衛」を全面的に担う羽目に陥ったことからすれば、この点においても日本は太平洋戦争に勝利した、という見方もあながち不可能ではないかもしれません。(太田)
 きわめて興味深いのは、戦争目的を「自存自衛」に一本化していたはずの海軍が戦略的攻勢をとり続けようとして進軍限界から逸脱し、二重の戦争目的を追求しがちであった陸軍が当初の戦争計画どおり戦略的守勢に入ろうとしていることである。・・・
 野村実氏は次のように指摘している。・・・山本五十六・・・は空軍力が戦力の中心になっていることを見抜き、海軍力で計算していた見通しよりもアメリカの戦力回復が早くなると予想して、連続的に勝利を重ねることを追求したのだ、と。なるほどハワイ作戦もミッドウェー作戦も、この文脈ならば理解することができる。・・・
 <他方、陸軍は、>対米戦争の進軍限界をわきまえていたから戦略守勢を主張したのではなく、対米戦争を徹底的に考え抜かずに、対ソ戦と対中戦の観点からそうしただけに過ぎなかった。<陸軍が>海軍の要請を断り切れなくて、進軍限界を超えたガダルカナルでの攻防戦にのめり込んでいったのは、ここにも一因がありそうである。・・・
 イヴァン・アレギンタフトの研究によると、過去200年間、国力に10対1の大差がある国家間の武力紛争・・・で、強国が弱国に勝った回数はその逆の2倍を上回るという。それはあまりにも当然だが、問題は、強国が3回に1回は弱国に負けていることである。アレギンタフトは、双方が同じ戦略アプローチをとる場合は強国が勝ち、異なる戦略アプローチをとる場合は弱国が勝つ可能性が高くなると論じている。・・・
→海上における戦いが中心であった太平洋戦争において、国力において圧倒的劣勢にある側(=日本)が(米国に)勝利を収める可能性は、一旦その国力差が軍事力(=装備の量と質)の差に具体化した後においては、極めて小さかったと言わざるをえないでしょう。(太田)

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_04.pdf
 芳賀美智雄「インドネシアにおける日本軍政の実態-その光と影-」の抜粋紹介
 これについても、ご紹介すべきものが何もありませんでした、と言いたいところですが、いかに芳賀が陳腐なことを述べてお茶を濁しているかを分かっていただくため、あえて抜粋紹介してみました。↓
 「・・・「石油の一滴が血の一滴」とも称され、米国による禁油が日米開戦の原因の一つとも言われる「石油時代」にあって、実質的な開戦第1および第2年のみとは言え、戦争(作戦)遂行に不可欠の石油の還送実績が取得見込量をオーバーしたことは、蘭印における石油の取得・開発は十分にその目標を達成するとともに、日本の戦争遂行に少なからず寄与したものと考える。したがって、資源の獲得という面からの軍政は、ある程度成功したと言えるのではないだろうか。・・・
 1949(昭和24)年12月27日、インドネシアは約4年半におよぶオランダとの独立闘争を勝ち抜き独立した。・・・日本にとって、南方地域占領の目的はあくまでも重要国防資源の獲得であった。したがって、日本の独立関連施策等はインドネシア民衆の軍政協力を得ることを意図して実施されたのであるが、結果的にそれらの施策もあってインドネシアは戦後、戦前の宗主国であるオランダによる再植民地化を免れ、独立を達成することができたし、諸施策は戦後の国家建設等にも貢献していると考えられる。・・・
 義勇軍等の創設目的(理由)は日本の軍事力の補強(補完)であったけれども、それらの創設と将兵等に対する厳しい軍事訓練や精神教育等は、結果的にインドネシア青年に軍事技術ばかりでなく、反オランダ意識や規律心、闘争心などの精神的遺産を残しており、激しく厳しかったオランダとの独立戦争や独立後の国軍建設に役立ったものと思われる。
 また、東條首相の政治参与許与表明(いわゆる東條声明)および大本営政府連絡会議において諒解を見た「原住民政治参与ニ関スル件」による政治参与の具体的措置は、軍政諮問機関の設置、高級行政官僚へのインドネシア人の任用などであったが、政治参与は日本(軍政当局)の民心獲得施策の一つであって、インドネシア人に真の政治権力を与えたわけではない。軍政諮問機関は、あくまでも諮問機関であって決議機関ではなかったし、諮問においても軍政当局者の内面指導と称する干渉や統制を受けた。かつ、高級行政官僚への任用も一部に限られ、実質的には日本人官吏が行政の実権を握っていた。
 しかし、・・・日本の政治参与施策は、インドネシア人に独立後に必要となる、国を運営して行くための行政技術(能力)を学ぶ(身につけ)、あるいは向上させる機会を与えており、戦後のインドネシアの国づくりに役立ったものと思われる。・・・
 <他方、>労務者の徴用および米の強制供出は、日本軍政圧政の象徴の一つとなっている・・・」
http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2007/forum_j2007_06.pdf
(続く)