太田述正コラム#4140(2010.7.19)
<縄文モード・弥生モード論をめぐって(その3)>(2010.11.20公開)
4 中西輝政・中村忠之「縄文・弥生」論争
 (1)序
 今度は、読者のFUKOさんから(コラム#4137で)教示された中西輝政(京都大学教授)と中村忠之(縄文塾主宰の一市民)との間での「縄文・弥生」論争のおさらいをしましょう。
 (2)論争
 まず、中西の主張は次のとおりです。
 「・・・縄文の昔、約1万年もの間、この国の人々は谷や盆地の狭い地域で、自然の恵みを分かち合いながら「和と共生の文化」を発達させた。ある種、無原則のこの文化は、同時に停滞的でもあり、それが行き詰まった時に迎えたのが弥生時代だ。稲作を基盤に大規模な集落を生み、国家統一を進めたこの「戦乱の文化」は、眠り込んだ日本を目覚めさせ、新しい日本の背骨を形成し、活力を蘇らせた。「縄文的なもの」と「弥生的なもの」がつながった時、日本らしさが誕生したのだ。 心の清廉さや集団の和を重んじる「手弱女」的な縄文文化、合理的で強い意思を 持つ「益荒男」的な弥生文化。日本にはこの2つが融合して在る。前の文明を一掃してしまう大陸の「更地文明」とは異なる、島国ならではの「重層的な文明」 ──これこそ日本の特質と言えよう。 ・・・
 縄文的安定が続くと眠り込みがちになる日本は、弥生的インパクトで電撃的に蘇る。元寇然り、明治維新然り。そう見れば現代は、戦後の縄文的繁栄を経て、弥生的なものが求められているわけだ。・・・」(「『日本らしさ』とは何か」(2002.1.1)より)
http://www.kepco.co.jp/insight/content/column/column001.html
(7月18日アクセス。以下特に断っていない限り同じ)
 これに対し、中村の主張は次のとおりです。
 「日本人は、基幹的先住民族『縄文人』と、波来民族『弥生人』の混血で形成されました。
 『縄文人』は世界最古の土器を発明した造形に秀でる改革・創造型人間でその本質は「自由人」であり、『弥生人』は、秩序と調和を重んじ、コメ文化を構築した改善・伝統人間で、その本質は「規則人」であります。
 日本人はこの両資質を有したハイブリッド人間であり、この二つの資質は融和し・離反し、相争い相援け合いながら、常に日本の歴史を通じて「乱世の縄文 治世の弥生」という役割りを繰り返し担ってきたのが実相です。・・・」(2006?)
http://joumon-juku.com/joumon_vs_yayoi/index.html
 「・・・「縄文人の資質は、通常、弥生人の資質の陰に隠れていますが、大きな変革期にはそれが表に出ます。例えば明治維新のときなどです。つまり、創造的破壊と改革の縄文の後に、秩序と和の弥生がやってきているんです。日本の歴史はその繰り返しなんですね」・・・」
http://www.epocaclub.com/kagayaku/zz47jyoumon.htm
(7月19日アクセス)
 そして、中村の中西批判は次のとおりです。
 「・・・縄文と弥生を置き換えたこと以外では、まったくと言っていいほど自説と先生のご説とは類似している・・・
 中西先生は、「縄文を含めた日本文明全体の底には、縄文性そのものを越える大きな「文明的地下水脈」 があったのではないか」といい、じつはものすごい変動に耐えられる「秘めたるダイナミズム」を持っていたとしか考えられないので、「つまり、縄文文明の中にも、つねに「弥生的なるもの」が秘められてい たのではないか」と謂う。・・・
http://joumon-juku.com/help/23.html
 「・・・中西先生は平安の低迷が縄文であって、弥生である武家システムがそれを打破したというのだが、私は平安において、奈良時代の唐様導入から、持ち前の換骨奪胎能力でいいとこ取りしたあと、和風への回帰をおこなった時代であり、それが公卿政治という弥生型官僚システムの行き詰まりから武家という荒々しい縄文システムによって打破されたというものだから、おかしいほど中西説の反対を行っていることになる。・・・
 もっとも中村説にも弱点はある。それは1万年も平和に過ごした縄文に現状破壊力があるのかという疑問である。・・・」
http://joumon-juku.com/help/24.html
 (3)コメント
 縄文的な時代と弥生的な時代とがサイクルを描く歴史として日本史をとらえる人が、ここにも2人おられることを知って、心強い限りです。
 その上で、この論争に関し、どちらに軍配をあげるかと問われれば、縄文と弥生の性格規定において私の考えとおおむね一致する中西の方に軍配をあげざるをえません。
 問題は、1回目の縄文モードと、1回目の弥生モードの始まりを、それぞれいつと見るかです。
 中西は、引用した彼のコラムからは、1回目の始まりをいつと見ているかは分かりませんが、1回目の弥生モードの始まり、ないしはモード転換の契機となったのは元寇である、と見ているわけです。
 他方、私は、これまではっきり述べたことはなかったところ、武家が国家権力を掌握した時点をもって1回目の弥生モードの始まりと見ているので、1185年の鎌倉幕府の成立、ないしは遅くとも1221年の承久の乱がそうである、と考えています。
 そもそも、弥生時代の成立についてさえ、禰宜田佳男のように、外的契機より内的契機の方を重視する史家がいる(コラム#4138)のですから、1回目の弥生モードの始まりだって元寇といった外的契機より、武家による国家権力掌握をもたらしたところの内的契機の方を重視したってよいのではないか、ということを付言しておきましょう。
 
 (ついでに言えば、中西は、引用したコラムからは、2回目の縄文モードの始まりをいつと見ているかは分からない一方、2回目の弥生モードの始まりを明治維新と見ていますが、後の点は私と全く同じです。
 また、彼は、3回目の縄文モードを始まりを敗戦に置いているようにも読めるものの、必ずしも判然としません。ひょっとしたらこの点も、彼、戦間期に始まるとする私と同じ考えかもしれませんね。)
 
(続く)