太田述正コラム#4208(2010.8.22)
<落第政治家チャーチル(その2)>(2010.12.19公開)
 –インド亜大陸–
 「・・・腰を落ち着けるか着けないないかのうちに、チャーチルは、「野蛮な人々に対する愉快なちっちゃな諸戦争」に加わるために出立した。
 現在のパキスタンの<西北部の>一部であるスワット渓谷で、彼は、つかのま、疑いの瞬間を経験した。
 彼は、地域の住民が反撃しているのは、英国人が英国が侵略された時にはそうしたであろうように、「地域の人々が自分達の土地だと思っているところに英国の部隊が駐留している」からであることを自覚したのだ。
 しかし、チャーチルは、すぐこの考えを抑圧し、それが「強い現住民的殺人性向」によって説明されるところの、単なる狂った聖戦主義者達の暴力であると決めつけた。
 彼は、渓谷全体を荒廃された襲撃に徐々に加わって行き、「我々は、組織的に、村ごとに進み、家々を破壊し、井戸を埋め、塔を爆破し、鬱蒼と茂った木々を切り倒し、穀物を焼き、貯水池を破壊して懲罰的荒廃をもたらした」と記している。・・・」(A)
→現在の(アフガニスタンを含む)この地域の状況を見ると、チャーチルのこの判断は正しかったと言わざるをえますまい。(太田)
 
 「・・・彼<は、>1930年代においても40年代においても、インドの独立に反対<し続けた。>・・・」(C)
→これも、正しい判断であったと考えます。(太田)
 「・・・初期に彼が書いたものの中ではイスラム教に対する敵意を何度も披瀝していたけれど、それがなくなり、戦間期には、熱狂的と言ってもいいくらいのヒンズー教に対する敵意に置き換わった。
 1943年に、彼は、「私はイスラム教シンパだが、ヒンズー教には色んな種類があるが、<共通する>そのたった一つの特徴それは悪(vice)であることだ」と語っている。・・・」(C)
→この「転向」はおかしいですね。(太田)
 「ガンディーが彼の平和的抵抗のキャンペーンを始めた時、チャーチルは、激怒して、ガンディーは「デリーの門のところに手足を縛って置かれ、継いで新しいインド副王を背中に乗せた巨大な象によって踏みつけられるべきだ」とした。
 彼は、後に、「私はインド人を憎む。彼等は、獣のような宗教の獣のような人々だ」と付け加えている。・・・」(A)
→ガンディーの評価については、(後出のものも含め、)表現はともかく、頷けるものがあります。
 ヒンズー教徒(インド人)に対する評価についても同様ですが、イスラム教徒のうち、少なくとも原理主義者のたちの悪さはヒンズー教徒の比ではない、ということを忘れてはならないでしょう。(太田)
 –南アフリカ–
 「・・・若きチャーチルは、帝国的残虐行為の中を駆け抜け、それらを次々に弁護して行った。
 南アフリカに最初の強制収容所がつくられた時、彼は、おかげで「最低限の苦痛」を与えるだけで済むようになったと言った。
 少なくとも<ボーア人>115,000人が収容され、うち14,000人が死んだ。・・・」
→先の大戦中の日本の捕虜となった英軍人の死亡率といい勝負ですね。(太田)
 –サハラ以南のアフリカ–
 「・・・ウィンストン・チャーチルは、人種主義者だった。
 彼は、「私は切れ目と弁髪の人々を憎む、私は彼等の外見と臭いが嫌いだ」等のことを言った。
 1931年に、彼は、ガンディーについて、煽動的なミドル・テンプル<出身>の弁護士で、半裸体の行者であり、「悪意を持った体制転覆的狂信者」であると描写したが、1954年に、彼は、白人のケニア植民者のマイケル・ブランデル(Michael Blundell)に、「黒人の人々は白人の人々に比べて効率性で劣る」と伝えた。
 もっとも、彼は、「仮に私が黒人男性に会ったとして、彼が文明化された教育を受けた人物であったなら、私は特段悪感情を抱くことはない」とも言っている。・・・」(F)
→ここも私が同じ見解を持っていることはご存じだと思います。(太田)
 <インドの次にチャーチルが訪れた、>スーダンでは、彼はそこを再び征服するのを急がせた。
 スーダンで、彼は自分で少なくとも3人の「野蛮人」を射殺したことを自慢している。・・・」(A)
 「・・・<戦後、蜂起したケニアの>マウマウ団・・・は思想(ideas)を持った野蛮人達であるので、対処するのが非常にむつかしい。」・・・」(C)
→マウマウ団だって、日本軍にインスパイアされて独立したインドにインスパイアされたに違いありません。マウマウ団の思想は日本が吹き込んだと言えるでしょう。(太田)
 –イラク–
 「・・・クルド人がイラクでの英国による統治に対して叛乱を起こした時、彼は、「私は非文明的な諸部族に対して毒ガスを使うことに強く賛成する。それは恐怖をまき散らすことだろう」と言った。
 (奇妙なことに、トイはこれを引用していない。)・・・」(A)
→それから半世紀以上も経ってから、フセイン大統領が実行に移しましたね。
 時期の違い、及び言うこととやることとの違いを顧慮すべきでしょう。(太田)
 –アイルランド–
 「・・・1920年代に、陸相、次いで植民地相として、彼は、家々を焼き払い一般住民を打擲するという、アイルランドのカトリック教徒に対する悪名高い「黒と日焼け色(Black and Tans)」政策を発動した。・・・」(A)
→前にも申し上げたように、イギリスは、アイルランドで培った植民地統治のノウハウをアジアやアフリカで駆使、発展させたところ、アイルランド植民地統治の最後の段階でその総復習をやった感がありますね。(太田)
 以上を総括しましょう。
 「・・・タカ派的で、頑固な反動たるチャーチルは、1920年代になってからようやく全面的に出現した。
 「戦間期こそ、彼がヴィクトリア朝人となることに決めた時だったのだ。」・・・」(F)
 「・・・これらの<チャーチルの>行動が時代錯誤的であるとするいかなる批判に対しても、鼻であしらうことは、もちろん容易だ。
 当時、英国の誰もが<チャーチルと同じように>考えていたのではないかだって?
 いや、トイの最も驚くべき発見の一つは、彼等は、本当にそうは考えていなかったということだ。
 当時においてすら、チャーチルは、英国の帝国主義者のスペクトルにおいて、最も暴虐的かつ暴虐者的な極限に位置しているように見られていたのだ。
 これは、彼のインドに対する姿勢に最も明確に現れている。
 この憎しみは殺人をもたらした。
 たった一つだが例をあげれば、1943年にベンガルにおいて飢饉が勃発した。
 ノーベル賞受賞の経済学者、アマルティア・セン(Amartya Sen)が証明したところによれば、それは英国の管理の不適切さ(mismanagement)によって起こされた。
 彼の同僚達がぞっとしたことだが、チャーチルは、「兎のように出血したことは」連中自身のせいであると激怒し、何ヶ月も何の援助を行うことも拒否し、その結果、何十万人もが死んだのだ。・・・」(A)
→まさに、19世紀のアイルランド大飢饉の際のイギリス政府の姿勢そのものです。
 つまり、チャーチルは、大英帝国を維持したい、(アングロサクソン中心の植民地を除き)独立付与は時期尚早であると考えた点では必ずしも時代錯誤的とは言えなかったけれど、植民地統治の手法においては時代錯誤的であったと言うべきでしょう。
 チャーチルに見られるところの、志とその志を実現するための手段との間の不整合です。(太田)
(続く)