太田述正コラム#4214(2010.8.25)
<落第政治家チャーチル(その5)>(2010.12.22公開)
3 ドイツ人のチャーチル評
 以上、現時点での英国での最も辛辣なチャーチル評・・私から見ればまだまだ甘い・・をご紹介してきたわけですが、ここで現時点でのドイツにおけるチャーチル評をご紹介しましょう。
 シュピーゲル誌の記事です。
 私は、この記事に登場するチャーチル関係の名所である、ロンドンの内閣戦時室(Cabinet War Rooms)(チャーチル博物館を含む)、コッツウォルド(Cotswolds)のブレナム(Blenheim)宮殿(チャーチルの生家であり生誕場所)、ケントのチャートウェル(Chartwell)のチャーチルの邸宅の3箇所すべてを、英国留学中の1988年に訪れており、この上もなく懐かしい思いがしました。
 それでは、記事のあらましです。
 「・・・ヒットラーより14歳年上のチャーチルは、学業成績がふるわず、軍人としての道を選んだ。・・・
 「大英帝国は私のすべてだ。この帝国のために良いことは私にとっても良いことであり、この帝国のために悪いことは私にとっても悪いことだ」<と彼は言った。>・・・
 ヒットラーは常に勝利を収めてきた英国人を尊敬しており、・・・彼の初期の著作は、このナチが、ドイツよりも英国諸島の総統になる方をむしろ望んでいたことを示唆している。
 ヒットラーは、大英帝国を彼の人種主義的帝国のモデルと見ていた。
 というのも、彼はそれが硬直性と人種的優越性の感覚に立脚した物であると見なしていたからだ。・・・
 王政主義者として、チャーチルは、ロシア革命には身の毛がよだつ思いがしていた。
 最初の頃の彼はそれはユダヤ的ボルシェヴィキの全球的陰謀であると非難していた。
 また、一時期、彼はイタリアのファシストたるベニート・ムッソリーニに親近感を抱いていたほどだ。
 彼のことをチャーチルは<何と>「ローマの天才」と呼んでいた。
 しかし、チャーチルは考えをコロコロ変え<る人物だった>。・・・
 <第一、>彼は、所属政党を2度も乗り換えている。
 1度目は保守党から自由党へ、それからまた保守党に戻った。・・
 <さて、>ヒットラーがまだ権力の座に昇るまでに、既に、このチャーチルは英国での巨大なる軍事力整備<の必要性>を訴えていた。
 その時点で、彼は、憎むべきソ連と同盟関係を結ぶことは英国にとって正しいことだとさえ信じた。
 どうしてか?
 彼はヒットラーの『我が闘争』の一部を読み、この独裁者の手法を侮蔑したが、これがチャーチルの最大の憂慮の種ではなかった。
 1937年にヒットラーに向けて発せられた言葉の中で、彼は、「我々はあなたのドイツにおけるユダヤ人やプロテスタントやカトリックの扱いを尊敬すると言うわけにはいかない…しかし、結局のところ、これらの事柄は、ドイツ国内に限定されている限り、我々の知ったことではない」と言っている。
 実際のところ、チャーチルは、伝統的な英国の勢力均衡アプローチの金言、すなわち、主要<欧州>大国は陸上で勢力を互いに均衡させるべきであり、その一方で公海は「英国が支配する(Rule, Britannia!)」、<という考え>によって動機付けられていたのだ。
 友人に宛てた手紙の中で、彼は、英国は、欧州大陸における最強の大国に屈したことがないと記している。
 (16世紀において)スペインのフィリップ2世にも、(18世紀において)太陽王ルイ14世にも、(19世紀において)ナポレオンにも、そして(20世紀において)ヴィルヘルム2世にも<屈しなかったと>・・。
 ロンドンの政府は、いつも2番目に最強の<欧州の>大国と同盟したものだ。
 <だからこそ、>ドイツの覇権を受容することは、「我々の全歴史に反することになろう」とチャーチルは記した<わけだ>。・・・
 この点において、かかる特殊任務への傾倒に関しチャーチルを非難することは酷というものだ。
 <というのは、>何と言っても、彼の先祖である、マールボロー公爵が、英軍の最高司令官として太陽王の部隊を制御し、かつ、チャーチルがこの公爵の伝記を1930年代に書いているのだから。・・・
 <彼が>「ヒットラーは大英帝国にとって最大の危険である」<と宣言したのはこういうわけだったのだ。>・・・
 <このチャーチル率いる英国がバトルオブブリテンで勝利したのは、>英空軍がドイツよりも技術的に優位に立っていた<し、>そのレーダーや誘導・警戒システムが世界で最も進んだ範疇に属していた<からだ。>
 かてて加えて、英国の航空機製造工場群は、ドイツのそれよりも多くの飛行機を製造していた。・・・
 <その結果、>1940年には、ヒットラーとチャーチルは手詰まりになった。
 英国は単独ではドイツに勝利できない一方、英海軍は強力すぎてドイツは英国に上陸侵攻するのは不可能だったからだ。
 しかし、チャーチルは<この膠着局面を打開する>もっともらしい計画を持っていた。
 彼の息子のランドルフ(Randolph)<の証言>を信ずれば、チャーチルは1940年5月18日に彼の計画を実行に移し始めた。
 その日の朝、ランドルフは浴室のドアの外に立って、髭を剃っていた父親<が出てくるの>を待っていた。
 突然、チャーチルは、髭剃りを止めて開け放たれたドア越しにこう言った。
 「私はどうしたらいいか分かったぞ。」
 「敗北を回避することができるって言うの?」とランドルフは尋ねた。
 「もちろん、我々は彼等を打ち負かせるということさ」とチャーチルは答えた。
 「私は米国を引きずり込むんだ」と。・・・
→この箇所、当然次著に盛り込むべきでしょう。
 我々は、チャーチルが米国を引きずり込むために日本をとことん利用したことを知っています。
 極東裁判でA級戦犯が平和に対する罪で裁かれましたが、悪い冗談が過ぎる、と言いたくなります。太平洋戦争に関しては、平和に対する罪で裁かれるべきであった筆頭はチャーチルであり、2番目はローズベルトであったことは間違いありません。(太田)
 ヒットラーもまた、新しいオプションを探しており、英国が頑張っていることに怪訝な思いでいた。
 最終的に、彼は、チャーチルが音を上げないのは、彼が、まだヒットラーと手を結んでいたところのソ連を密かに頼みにしているからであろうという独自の理論を抱くようになった。
 このばかげた観念に取り憑かれ、ヒットラーは本気で、もともとそうしたいと考えていたところの、スターリンへの攻撃を行う決意を固めた。
 「ロシアが全滅すれば、イギリスの最後の望みは潰えるだろう」と。・・・
 このソ連に対する攻撃のおかげで、英国の政治システムははっきり救われることとなった。・・・
 <しかし、ヒットラーと全力を尽くして戦った結果得られた>勝利は高く付いた。
 というのは、この戦争は伸びきった大英帝国の衰亡を加速したからだ。
 歴史の皮肉は、帝国主義者たるチャーチルその人がその衰亡を促進することを強いられたことだ。
→強いられたのではなく、チャーチル自らが重大なる過失により大英帝国の衰亡を加速させたわけです。(太田)
 しかし、政治的現実主義者として、彼は唯一の選択肢しかなかった。
 民主主義の米国かナチスドイツかどちらかの劣位のパートナーになるという・・。
 そのどちらの手はずの方が英国の国益を増進させる可能性が高いかを認識することはむつかしいことではなかった。・・・
→その通りですが、米国の軍事支援にとどめず、米国を参戦させたこと、しかも日本を対米英開戦に追い込むことで米国を参戦させたことは、愚かの極みだったわけです。(太田)
 チャーチルは、ドイツの諸都市に毒ガスを落とすという考えをもてあそぶことすらしたが、彼の将軍達がそれに反対した。・・・
→ドイツの諸都市に対する戦略爆撃だけでもチャーチルもまた戦争犯罪者として裁かれるべきでした。
 言うまでもなく、太平洋戦争に関しては、日本の諸都市に対する戦略爆撃をやったローズベルト、これに加えて原爆投下もやったトルーマンは戦争犯罪者として裁かれるべきでした。(太田)
 チャーチルは、ナチスの犯罪を、英国がSSと警察の1942年の夏におけるソ連でのユダヤ人の虐殺の報告を暗号化するのに用いていたカギを破った時点で知った。
 1942年には、この首相は、内閣に対して、ヒットラーが捕らえられたら、裁判抜きで電気椅子で犯罪者のように殺させると語った。・・・
 チャーチルの戦争の成績簿は、少なくとも彼がポーランドとチェコスロバキアのロンドン亡命政府の要求を支持し(、その結果正当化し、)東欧からのドイツ人の追放に貢献したという一点において汚点付きだ。
 それは、チャーチルの最も暗黒の瞬間の一つだった。
 テヘランでの3巨頭の会談において、彼は当時のドイツ領の大きな部分をソ連とポーランドに移し替えた。
 ドイツ人達はこれらの領域から退去しなければならなくなり、何万人もが強制された徒歩行の間に死んだ。・・・
 1945年7月に勝利者たるチャーチルはベルリンの廃墟を視察した。
 彼は、ヒットラーが生を終えた壕に連れて行くよう求めた。
 彼は、この独裁者の死体が焼かれた第三帝国官房(Reich Chancellery)の中庭も見せられた。
 もちろん、このチャーチルの訪問は事前には<ベルリン市民には>知らされていなかった。
 にもかかわらず、大勢の人々が官房の前に集まった。
 そしてチャーチルがこの群衆の中を歩いて行った時、彼はこのドイツ人達が彼を英雄として祝福したことにびっくりした。
 不同意であるかのように一人の老人だけがその首を振った。・・・
 彼が帝国主義者だったから、一人の人間の命が彼にとってはほとんど何の意味も持たなかったから、そして彼が爆撃戦争に関して常軌を逸しておりかつまた民族浄化を推進したから、と彼を嫌っている者がいる。
 しかし、結局のところ、彼がこの<ヒットラーとの>決闘に勝ったことで我々は満足するほかないのだ。」(G)
→そう言わなければならない、ドイツ人の悲哀を痛切に感じますね。(太田)
(続く)