太田述正コラム#4236(2010.9.5)
<大躍進政策の真実>(2011.1.4公開)
1 始めに
 材料ばかり増えて、次著の編集が一筋縄で行かなくなっていることは重々承知しつつも、新たな関連情報に接すれば、ご紹介せざるをえません。
 フランク・ディコッター(Frank Dikotter(’o’にウムラウトが付く))の ‘Mao’s Great Famine: The History of China’s Most Devastating Catastrophe, 1958-62’ が出たのでさっそくそのさわりをご紹介しましょう。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2010/sep/05/maos-great-famine-dikotter-review
(9月5日アクセス)
B:http://www.literaryreview.co.uk/mirsky_09_10.html
C:http://www.historybookclub.com/pages/nm/product/productDetail.jsp?skuId=1067057083
 なお、ディコッターは、ロンドン大学東洋・アフリカ研究スクール(School of Oriental and African Studies)と香港大学の教授をしています。(B)
2 大躍進政策の真実
 (1)何が起こったのか
 「・・・大躍進政策(Great Leap Forward)というのは、毛沢東という、一人の個人の誇大妄想癖と異様な政策指示群によって決行され、それに伴って生じた1958年~62年の飢饉という災害だ。・・・」(C)
 「・・・新しくつくられた人民公社で、農民達は、毛の狂った勧告に従い、水田を不必要に深く耕した。
 彼等は、自分達の家を取り壊して肥料に用い、農機具を溶かして、毛が進んだ社会主義国家の徴である・・要するにスターリンは「鉄の男」ではなかったか・・とした鉄をつくった。
 他の農民達は、自分達の農場を捨て、何マイルも歩いて、無に帰した巨大な水利工事に夜通し従事した。その間、彼等の家族は家で穀物がなくて死んだ。
 何百万人も更に死んでもおかしくなかったのが食い止められたのは、ディコッターが詳細に記述するように、彼等が決死の覚悟で食物を盗んだからだ。・・・」(B)
 「・・・巨大だが欠陥設計の水利プロジェクトが「自然を征服」するための努力の対象とされた。
 農村のコミュニティーは、大規模で非効率的な共同体へと組織され、「裏庭の製鉄工場」が調理容器を溶かし、「深耕」が反当収量を劇的に増加させると考えられたけれど、反対に収穫減がもたらされた。
 何百万戸もの家が取り壊され、土レンガ壁が砕かれて肥料にされた。
 作物を食べないよう、何千万匹もの雀が殺された。(その結果害虫によって食い荒らされてしまった。)
 おべっか使いの党上級幹部達は甚だしく水増しされた成果を競い合い、疑問を呈したわずかの者は容赦なく左遷された。・・・
 何百万人もの人々が、運河を掘ったりダムを建設したりして文字通り死ぬまで働き、それよりも更に多くの人々が飢餓や栄養不良に関連する疾病で死んだ。
 この狂気に抵抗した者は、穀物を退蔵したとか仮病を使ったとかの廉で処刑された。・・・」(C)
 「・・・毛とそのお仲間達は、死亡報告がどんどん入ってくると、そのうち一人が、「これは我々が払わなければならない代償だ。何も恐れる必要はない。[革命の大義のために]戦場や牢獄で犠牲になった人々がどれだけいたのか分かったものではない。今病気や死の若干の事例が出てきたからといって、そんなものは取るに足りない」と言ってのけたものだ。・・・」(B)
 (2)犠牲者
 「・・・<毛>主席は、現実を認めることを拒み、人々が一日5回食事をしていると語り、彼の国が飢餓に陥っているというのに、食糧の輸出を続けることに固執し、次のようなぞっとするぞんざいな言を発するのを恣にした。
 「十分な食べ物がなくなると、人々は飢餓で死ぬ。半分の人々は死んだ方がよい。そうすれば、残りの半分は腹一杯食えるからだ。」・・・」(A)
 「・・・1959年から1962年の飢饉の間に、少なくとも4,300万人の支那人が死んだ。
 大部分は飢えで死んだが、200万人を超える人々は殴打され、或いは拷問を受けて死んだ。
 出生率はいくつかの場所で半減し、両親達は自分達の子供を売り、人々は死者を掘り出して食った。・・・」(B)
 「・・・この災害について、従来の説明では、死者数は2,000万人から3,000万人とされてきた。
 この<本の>驚愕すべき包括的説明の中で、<著者は、>・・・本当の数字は恐らく4,500万人近いと示唆する。・・・」(C)
 (3)終熄
 「・・・<こうして>支那が破滅へと落ちていった時、この体制の第2位のメンバーである劉少奇(Liu Shaoqi)は、自分の出身の村を訪問した時に目にした状況に衝撃を受け、<毛>主席に撤退を強いた。
 国家再建に向けての努力が開始された。
 しかし、毛はそれでもおしまいにはならなかった。
 その4年後、彼は文化大革命を始めた。
 その最も著名な犠牲者は劉だった。
 彼は、紅衛兵に追い立てられて1969年に死んだが、薬の投与を拒まれ、偽名で火葬に付された。・・・」(A)
 (4)その後
 「・・・共産党は、今なお、<こんな>毛について、70%良く、30%悪かったとしている。・・・」(A)
 「・・・毛の評判に関して言えば、この本は、この主席に、ヒットラーとスターリンと同じ穴の狢の怪物である、ととどめを刺した。
 これは、文化大革命(1966~76年)の年月の間に何十万人もの支那人が死んだことを考慮に入れないでだ。
 ディコッターの観察結果の一つは、毛が文化大革命を焚きつけたのは、彼に恥ずかしい思いをさせた親しい同僚達に復讐するためだったということだ。
 支那で多くの支那人が、この飢饉について、ソ連政府が借款を穀物輸出で支払えと固執して飢えている支那人達の口から食糧を奪い取ったためだ、とソ連のせいにしていることは、歴史的闇が今なお支那を覆っている徴である<とも彼は指摘している。>・・・」(B)
3 終わりに
 人口比を考えると、北朝鮮の金父子がやった悪行は(国共内戦等での悪行もこれあり、)支那で毛沢東一人でやった悪行にほぼ匹敵します。
 民主主義独裁がいかに危険な代物か、ということです。
 しかし、毛沢東が徹底的な悪人、すなわち、エゴイストの極限のような男であって、自分の子供に最高権力者の地位を継がせようなどと全く考えず、彼の子供が後を継がなかったおかげで、中共は経済政策の抜本的転換ができ、今日の高度経済成長を実現したわけです。
 これは歴史の奸計と言うべきかもしれませんね。
 この毛沢東の悪行も金父子の悪行も、どちらも米国が日本帝国を瓦解させなかったならば、行われることはなかったでしょう。
 改めて、米国が犯した原罪に怒りがこみ上げてきます。