太田述正コラム#4330(2010.10.22)
<ヒットラーとスターリン(その3)>(2011.2.12公開)
 「・・・スナイダー氏の本は、ヒットラーの「最終的解決(Final Solution)」たる欧州のユダヤ人の粛清が完全に独自の考え(idea)ではなかったということをはっきり指摘していない。
 それより10年前、スターリンは、その「民族的(national)」感情が彼のソ連ユートピアにとっての脅威と感じられたところのウクライナの農民階級の絶滅に乗り出した。
 農業集団化は彼が選んだその手段(weapon)だった。
 野蛮に実施されることで、集団化は飢饉をもたらした。
 1933年の春、ウクライナの人々は、毎日10,000人のペースで死んでいった。
 その後スターリンは、ソ連の他の標的集団にとりかかった。
 最初は、スターリンが「階級として解体(liquidate)」される必要があると述べたところの富農・・いわゆる相対的に金持ちの農民・・と様々な少数民族(ethnic minority)だった。
 1930年代末には、「最も迫害された」欧州の民族集団は、我々の多くが想定するところのナチスドイツのユダヤ人・・それは、400,000人という比較的小さなコミュニティーであったところ、人種諸法の賦課後にそれがまだ可能な時期に移民となることを強制された結果、その数は更に減少していた・・ではなかった」とスナイダーは主張する。
 スナイダー氏によれば、当時最も酷い目に遭ったのは、ソ連内に住んでいた600,000人のポーランド人だったのだ。
 この集団が第五列の代表格であると確信し、スターリンは、KGBの前身であるNKVDに「このポーランドの汚物を掘り出して片付け続ける」よう命じた。
 スナイダー氏は、第二次世界大戦が始まる前に、111,091人のソ連のポーランド人が処刑されたと記す。・・・
 蛮行が最高潮に達したのは、ドイツ軍と赤軍が1939年にポーランドを侵攻した後だった。
 リッベントロップ–モロトフ条約が電撃戦の一週間前に調印され、主権国家たるポーランドはナチとソ連という同盟国の間で分割された。
 侵攻したドイツ軍は一般住民に手を触れるなとの命令に従った。
 しかし、ソ連は暴虐さにおいて、当時、より経験を積んでいた。
 1940年の春、スターリンは21,768人のポーランド人将校達について、後にカチン虐殺(Katyn massacres)と知られるところとなったところの、殺害をするよう命じた。
 「敵」階級及び「敵」民族たる何十万人ものその他の人々が東方に追放され、そこで多くが死んだ。・・・
 ヒットラーとは違って、スターリンは彼の全球的帝国の夢を実現させた。
 彼の最後の殺害行為は、彼自身が1953年初頭に亡くなる前の1952年末のもう一つの反ユダヤ人粛清だった。・・・」(D)
 「・・・<ナチスによって>ホロコーストで全滅させられた600万人のユダヤ人という数字は最もよく知られているが、それに次ぐものが、スターリンによって射殺された22,000人のポーランド人将校達、そして同じく彼によって餓死させられた300万人から700万人のウクライナ人だ。
 ずっと少ない読者しか気付いていないのが、ベラルス人の受けた苦痛だ。
 900万人の住民のうち、150万人が殺害され、このほか300万人が追放された(その多くが死亡した)・・我らの時代においてこの数字に近いのはポルポトによるものだ。・・・ ヒットラーによる殺害の狂乱は4年間しか続かず、しかも、おおむねドイツの外で行われた。
 <ところが、>スターリンによる殺害は25年間にわたって波が打ち寄せるように何度も行われ、征服された諸領域よりもどちらかといえば、より「本国(homelands)」において行われたが、それは、レーニンとトロツキーによる、より一層ひどい形で記録されているところの1918年から1921年にかけての諸虐殺の、1920年代中頃の凪を経ての再開、と見ることもできる。
 仮にヒットラーとスターリンがどちらも博徒だったとして、この二人は異なったゲームをしていた。
 すなわち、ヒットラーはすべてを電撃戦(Blitzkrieg)にかけたのに対し、スターリンは冷血のポーカーをやったのだ。
 何と言っても、ヒットラーは負け、スターリンは勝った。
 スナイダーはしかし、彼のヒットラーとスターリンとを、そしてナチとボルシェヴィキとを、重ね合わせるアプローチを、この二つは相互にシナジーがあったとして正当化する。
 彼等は互いに子供を脅すのに使うお化け(bogeymen)を提供し合った。
 すなわち、彼等は、片一方の<ナチまたはボルシェヴィキの>妖怪性でもって<それに怯える>欧米の支持者を勝ち取ったのだ。
 また、彼等が共通に抱いていたところの、ポーランドが存在してはならないとの信念は、ポーランド人に想像をはるかに絶する恐怖を与えたので、今日のポーランド人のドイツ人とロシア人に対する強情とさえ言える寛容さは、キリスト教的利他主義の極端な形態のように見える。
 『血の土地』のテーマは、このどちらの独裁者も自分の怒りを部外者に対してぶちまけたということだ。・・・」(B)
(続く)