太田述正コラム#4599(2011.3.6)
<皆さんとディスカッション(続x1126)>
<太田>(ツイッターより)
 (コラム#4597に関し)奇しくも、農奴解放のアレクサンドル2世も奴隷解放のリンカーンも、どちらも暗殺によって生涯を閉じている。
 政治家って、本来、このような、自分の命を省みず他人の生死を左右するような営みに携わる職業なんだぜ。
 (コラム#4406に関し)貴下の成功の秘訣如何→エネルギーの節約なり。坐しておられる時に立たぬこと…(チャーチル)。
 チャーチルは紳士ならず。淑女入りし時、立ち上がらぬ故(セオドア・ローズベルト)。
<植田信>(2011.3.1)http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9705http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9706
 –太田述正氏は、19世紀以後の日本史をいかに読みとるか–
 戦後の日本が対米従属だとして、この問題なら、もうなんといっても太田述正氏だろう、と思い、実に久しぶりに、太田氏のプログを拝見してみました。
 <コラム>#4303・・・の「日本人の近現代史認識のゆがみ」。これはどうやら太田氏が定期的に開催しているオフ会での講演のようです。
 それと、最近の『吉田茂の自問』を読む、です。全5回。
 どちらも、大変面白い内容でした。
 で、まず、オフ会講演のほうです。
 http://blog.ohtan.net/archives/52032759.html
 太田氏が19世紀以降の日本の現代史を一つの視点から読みとろうとしています。
 その叩き台として選ばれたのが、中学の歴史教科書。日本文教出版。
 太田氏は、ここから3点、問題点をピックアップしました。
>この教科書の問題点として、記述の精粗のアンバランス、戦前と戦後の断絶、戦前・戦後それぞれの時代規定の欠如、の3点をとりあげたい・・。
 1 太平洋戦争の記述が長すぎる、と。
>最初に気が付くことですが、この教科書をつくった人々、太平洋戦争に強迫観念でも抱いているのか、と言いたくなりませんか?
 いくら日本人だけでもウン百万人死んだと言っても、わずか3年8ヶ月間・・終戦が8月15日ではなく9月2日としても、わずか3年9ヶ月間・・のことですよ。
 そう言われてみれば、その通りであるなあ、と私も思います。
 2 戦前の記述量と戦後の量がまったくバランスが取れていないこと。
>次におかしいのが、戦前と戦後とで分量にバランスが全くとれていないことです。
 戦前は1868年から1941年までの73年間であるのに対し、戦後は1945年から2010年までの65年間・・厳密にはこの教科書を作成した2008年までの63年間ですが・・ですから、ほぼ同じくらいの年数だと言ってよいのです。
 ところが、ページ数では、前者が後者の実に5倍近い分量になっています。
 これはおかしいと思いませんか?
 歴史の教科書はそんなものだろう、と私は思っていたのですが、太田氏は、ここに執筆者の思想を読みとりました。
 次の通りです。
>私の理解では、こういうことではないでしょうか。
 この教科書は、日本の歴史は太平洋戦争で終わっている、という、戦後日本人の(潜在的な)歴史認識を忠実に反映している、ということです。
 やや誇張して申し上げますが、年表が意味を持つのは、広義の政治、とりわけ対外的な政治であるところの外交や戦争、に関してのみであると言っても過言ではないところ、年表が意味を持つ歴史らしい歴史とは、端的に言えば、外交・戦争史である。しかるに、戦後の日本は、後述するように、米国の属国となり、外交の基本及び戦争を放棄してしまったので、そのような意味における歴史を持たない。だから戦後についての記述が著しく少なくなってしまう。ということだと私は思うのです。
 そう考えれば、太平洋戦争が詳述されるわけが分かりますよね。
 なんとなれば、それは、この教科書をつくった人々にとっては、少なくとも潜在意識において、日本の歴史を事実上終わらせた黙示録的大事件だったからです
 実に面白い見方です。
 確かにこういう見方もあり得ます。
 太平洋戦争は、執筆者にとっては黙示録的大事件だった、と。
 ここからの関連する私の意見ですが、それゆえに、日本では、今も「戦後」と言えば、たいてい太平洋戦争を指す、と。決してベトナム戦後とか、湾岸戦後とか、冷戦後、イラク戦後とかにはならない。
 これはなんとかならないものか。
 というわけで、戦後の日本人の戦争体験は、太平洋戦争で完全停止しています。
 まさに黙示録的事件でした。ハルマゲドンもどきの原爆が、2発も落ちたことだし。
 で、太田氏によれば、戦後は、世界史的視野から見れば、日本国内の出来事で大きなことは起きていない、と。なぜなら、戦後の日本はアメリカの属国だから。
 ここから、戦前と戦後の断絶の指摘になります。
 3 >ここから、戦前と戦後は断絶したものとして描かれることとならざるをえません。
 当然、榊原英資や私の主張であるところの、日本型経済体制が戦前末、戦中、戦後を貫いていることはもとより、私の主張であるところの、戦前の日本の安全保障政策が戦後基本的に米国によって継受されたということ、に目が向けられることはないのです。
 それどころか、「日本の占領と民主化」という表題の下、「総司令部は,・・・治安維持法を廃止して政治活動の自由を認め,選挙法を改正して20歳以上の男女に選挙権をあたえました。また,労働者の団結を認めた労働組合法や,労働条件の最低基準を定めた労働基準法も制定されました。・・・総司令部による改革にともなって,民主化をめざす国民の運動が進められました。」と記述しており、これらが、戦前・戦中の延長線上の措置であるにもかかわらず、あたかも革命的な措置であるかのような印象を与えてしまっています。
 ははは、これはまるで私のことが言われているような感じではありませんか。
 戦後のいいところは、全部、アメリカ占領軍が与えてくれたのである、と。
 しかし、太田氏によれば、それらの多くは戦前から日本人が自前で用意していたもの、と。
 というわけで、私は、戦後教科書の忠実な生徒だったことになります。
>教科書の先ほどのような占領時代の記述を読まされれば、生徒達の大部分は、日本の自由民主主義は占領軍が与えたものである、と誤解してしまいかねません。
 はい、誤解していました。
 というか、そういう意見があるのは知っていましたが、たいした問題ではない、と思っていたというのがホントのところです。
 いいものが憲法で制定されれば、あるいは社会的に実現されれば、それが日本人発であろうと、占領軍発であろうと、大した問題ではない、と。
 しかし、以上のところは、太田氏が自説を述べるための叩き台です。
 それゆえに、叩き台である「教科書」の記述は、誰にとっても学校の試験対策であり、「本気」にする人はいない、と言いましょう。
 とはいえ、それ以後に新しい自分の考えをリセットしないと、そのまま教科書の見方を一生ひきずることになります。気をつける必要があるのはそこです。
 私たちは、一度、すべてのことを疑う必要があります。
 デカルトが要請したように、絶対に確実な知識を得るには、一生に一度は、すべてのモノを疑え、と。
 しかし、このデカルト的懐疑を実行する日をいつにするか、皆さん、気をつけましょう。
 学校教育を終えてからにしてください。
 小学校の時代に「疑い」を持ち始めたら、もうアウトです。
 先生の声が耳に入ってきません。
 学校教育を終えるまでは、素直で、いい子でいましょう。
 だから、日本社会では、デカルト的懐疑は18歳か、20歳を過ぎてからです。
 酒、タバコ、クルマの免許の年齢になったら、それに合わせてデカルト的懐疑をはじめましょう。
 しかし、その時には、もう<遅すぎるかもしれません>。
 このへんは、なかなか難しいところです。
 さて、以上は序論です。
 太田氏が自説を述べるのは、そこからです。
 ・・・
 太田氏の中学の歴史教科書の批判を通しての自説の展開が始まります。
 非常に面白く、有益なところです。
 私が太田氏の存在を知ったのは2002年のことでしたが、ついに気合いを入れてその意見を拝聴する時期が来ました。
 なぜ太田氏か。
 まず、これを考えてみます。
 といえば、そのポジションが戦後の日本ではスペシャルです。
 防衛庁の官僚だったこと。
 憲法9条下での軍事省庁の官僚。
 この立場がいかなるものか?
 しかし、その一方で、その立場ゆえに、余人の目には見えない角度から日本が見える、と。
 その視点は、私が思うには天皇しか取ることが出来ないポジションである、と。
 70年代に渡部昇一氏が言いましたが、天皇は、他の日本人とは異なり、すべての俗世の心配を離れて、日本を考えることが出来る。つまり、生まれながらにして、鳥瞰的視点を持ち得る方である、と。だから、その視野は、誰よりも広い、と。昭和天皇の時代の発言でした。
 この天皇の立場に迫ることが出来るのが、次の太田氏の発言です。
 >「近代化」が安全保障上の必要性に迫られたものであった・・。
 そう、日本国の安全保障を最優先に置けば、幕府側であろうと、倒幕派の立場であろうと、ロシアに対する恐怖は等しいだろう、と。
 そう、太田氏の視点の面白いところは、19世紀以降の日本史を一環して貫いているのは、ロシアのプレゼンスへの対応である、と見ている点です。
 昭和天皇の世界観、あるいは日本国の安全保障観の主眼がこれでした。ソビエト連邦は、日本にとって、すなわち、皇室にとって脅威である、と。
>そもそも、江戸時代において、脅威と認識されたのは日本のすぐそばにまで、地続きで膨張してきたロシアでした。
 幕末、横井小楠(1809~69年)が、「国是三論」(1860年)において、「米国については、「メリケンにおいては・・米英を親近感をもって褒め称える一方、清に対しては直裁的に、そしてロシアに対しては暗黙裏にその反自由・民主主義性に嫌悪感を示した・・。
 現代日本史の運命を決めたのは、ロシアのプレゼンスである、という太田氏の指摘は、実に興味深いです。
 私たちは、普通、日本の現代史の起点を1853年のペリーの来航に置きます。ペリーによる「開国」は史実ですから、これは当然として、しかし、太田氏はロシアに注目します。
 そして明治以後の日本史を見ると、確かにロシア要因は大きいです。
 アメリカはペリー以降、南北戦争に入り、日本どころではなくなりました。
 アメリカに代わって明治政府の脅威になったのが、ロシアでした。日清戦争もロシアを見据えての戦争でした。日露戦争は、当面の脅威との正面戦争でした。
 それまで傍観者の立場を取っていたアメリカが、日本の勝利を見て、日本を敵国と特定しました。セオドア・ルーズベルト大統領です。ポーツマス条約も、日本の勝利を牽制するものでした。ロシアは日本に賠償金を与えなくても良い、と。
 とにかく、太田氏はロシアに注目して、以下の見方を提唱します。
>私見では、戦前の日本については、太平洋戦争の終結に至るまで、ロシア・・ロシアが生み出した、民主主義独裁の独特のシステムを含む・・の脅威への対処、をもって時代規定とすべきなのです。
 そのような時代規定をしない限り、戦前の日本の内政や対外政策をまともな形で理解することはできない、と言いたいところですね。
 これは、大いに妥当性があるでしょう。
 満州事変もこれで説明できます。
 ソビエトの南下政策(膨張)へのブロックだった、と。
 で、太田氏は、この見方のことを、幕末にロシアの脅威を訴えた熊本藩士・横井小楠の名前をとって「横井小楠コンセンサス」と呼んでいます。石原莞爾もそうすると、横井小楠コンセンサスの支持者だったわけです。
 では、戦後はどうか。
 戦後世代の私たちには最も肝心なところです。
>それでは、戦後を時代規定するとしたら何でしょうか。
 太田コラムの読者なら、どなたでも「属国」(教科書的には「保護国」)だろうとお答えになるでしょうね。
 そのとおりです。
 戦後、米国は、いわば横井小楠コンセンサスを日本から継受し、東アジアならぬ全球的に、ロシアの脅威に対処する国家戦略を展開し、戦後史を刻んで行くわけです。
 その米国の属国たることを自ら選択した日本は、宗主国に庇護された形で、ハイポリティックスを放棄したエコノミック・アニマルとして、歴史のない無明界に漂い続けて現在に至っている、ということになりましょうということになりましょうか。
 その結果が、日本における、現在の脳軟化症であり退廃・腐敗である、ということでしょう。
 いや、軟化症どころか、菅首相は、脳死である、と私は書いています。
 まあ、それはともかく、戦後の日本がアメリカの属国であることは、太田氏がご自分のサイトを立ち上げる前から、副島隆彦氏が主張されていました。もっとも、太田氏は、官僚の時代は、言うに言えない状況であったことでしょう。
 戦後の日本がアメリカの属国であることは私たちには了解済みとして、問題は、なぜそうなのか、です。
 アメリカのせいなのか、そうでないとしたら、何なのか。
 太田氏の解です。
>戦後においては、占領当局たる米国が、1950年の朝鮮戦争勃発を契機に、せっかく、日本を自国のまともな同盟国に育て上げるべく日本の主権回復を強く求めた・・軍隊を保有した形で日本に全面的主権回復をさせようとした・・というのに、日本は、それを拒否し、制限付きの主権回復に固執し、占領終了後も自ら己に制限を課したまま現在に至っている、というわけです。
 まるでサンタクロースのプレゼントのようなアメリカの提案を、いったい、誰が、拒否したのか?
 吉田茂でした。
 そこで、なぜ「臣・茂」は、アメリカの提案を拒否したのか、となります。
 続く。
<植田信>(2011.3.2)http://8706.teacup.com/uedam/bbs?page=4&
 –戦後の日本がアメリカの属国であるというのは、どういうことか–
 ・・・話題は変わって、昨日の続きである太田述正氏のプログから。
 こちらも大きな問題です。
 私の問題意識は、
 1 戦後の日本は対米従属になっているが、太田氏はそのことをどこに見ているか?
 2 それが吉田茂のせいだとしたら、吉田茂は、何を考えていたのか?
 「吉田ドクトリンの呪縛」のプリントが見つかりました。以前に拝見したものです。
 2004.10.3のものです。
 http://blog.ohtan.net/archives/50955342.html
 ここに簡潔に解答がありました。
 1 >日本国民は在日米軍の駐留経費のうち2,500億円弱も(減らしてきたとは言え、現在でも)負担しています(http://www.dfaa.go.jp/jplibrary/01/index2.html。9月3日アクセス)。カネに色がついているわけではないことから、これは日本が米国の国防費の一部を負担していることを意味するのであって、米国の各州の住民が米国の国防費の一部をそれぞれ負担していることと同じです。
 ところが、日本は米国議会には議員を送り込んでいる米国の一州ではないのですから、これは日本が米国の保護国であることを国際通念上意味します。(広く世界を見渡しても、外国軍の駐留経費を負担している独立主権国家は、日本と韓国・・近傍の日本に米国によって強引に倣わされた・・以外は皆無であるわけはこういうことなのです。)
 日本はすでに米軍の駐留経費を負担している、それでいて日本はアメリカ議会に代表を送っていない。ゆえに日本はアメリカの保護国である、と。
 実に明快な説明です。
 代表なくして、課税なし、と。アメリカ独立戦争を引き起こした発想です。
 代表なくして、「思いやり予算」は不要である、と。
 2 では、吉田茂は、いかなる理由から、米軍駐留を受け入れたか。
 太田氏が画期的な解釈をしています。
 吉田茂が言ったという「戦争で負けて、外交で勝つ」という名言(?/迷言か)の意味です。
 昨日紹介したように、ペリー以後の日本の現代史は、太田氏の意見では「横井小楠ドクトリン」が貫かれている状況が一貫してあります。すなわち、ロシアの脅威です。
 この状況下で、戦後の日本は憲法9条国なりました。
 では、日本が憲法改正したのだから、ロシアという国も南下政策をやめたのか?
 といえば、昨年来からの北方領土問題を見るまでもなく、すきあらば、日本国の領空、領海はおろか、領土にまで進出してやる、という姿勢でいます。
 このことを認識していた吉田首相は、考えました。
 太田氏のプログから。2007.9.16「吉田茂小論」
 http://blog.ohtan.net/archives/51002496.html
>吉田茂は、1946年5月に初めて首相に就任する際、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と側近に語っています(ウィキペディア上掲)。
 私は、この発言を、大東亜戦争敗戦の意趣返しのため、戦前の日本に代わって、東アジアにおけるソ連等共産主義勢力への防波堤の役割を米国に全面的に負わせるべく首相に就任するという吉田の決意表明であると思っています。
 だからこそ、吉田は、占領軍が「押しつけた」第9条入りの日本国憲法を堅持し、「戦力なき軍隊」(自衛隊に関する吉田自身の議会答弁。ウィキペディア上掲)の保持しか肯んじなかったのだし、1952年のサンフランシスコ講話条約締結にあたって日米安保条約の締結にあれほど執念を燃やした(ウィキペディア上掲)のだ、と私は考えているのです。
 実に興味深い説です。
 日本に代わって、アメリカにロシアの脅威に対抗してもらう、と。それが戦後の日米安保の役割だと吉田茂は考えた。
>すなわち、吉田は、米国と旧軍に対する二つの私憤・・・の意趣返しのため、憲法第9条の堅持と「戦力なき軍隊」の保持という、政治家としてあるまじき政策に固執することによって、結果として、講話条約によって主権を完全に回復するはずであった日本を米国の保護国にしてしまった責任者なのです
——————————————————————————-
→植田さん。私のこの二つの吉田観、180度違うんだよ。私のコラムの読み込み方が足らないぞ。(太田) 
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 吉田茂は、ロシアに脅威を覚えつつ、同時に、旧日本軍を嫌っていました。
 この二つを同時に解決するにはどうしたらいいか。
 吉田には、日米安保は最適解でした。
 これはこれでいいとしましょう。
 そうすると、次に疑問になるのは、吉田茂は1967年に死にましたが、なぜ吉田茂の政策は、今も続いているのか、です。
 戦後の日本人は、その気になれば、吉田茂の体制を変えることができます。
 では、なぜ変えないのか?
 アメリカが強要するからか?
 それとも、それ以外に何か理由があるのか?
 
 ・・・
 今度は太田述正氏の『吉田茂の自問』を読む、の話題です。
 昨日は、全5回と書きましたが、全部で6回のシリーズでした。
 私の関心は、吉田茂の死後も、なぜ日本人は吉田茂体制を維持しているのか、です。
 このことの背景が、太田氏の「『吉田茂の自問』を読む」から、何かわからないものか、と。
 なお、この太田氏のシリーズは、太田氏のブログ読者が小倉和夫の『吉田茂の自問 敗戦、そして報告書〈日本外交の過過〉』(藤原書店2003.9)を太田氏に紹介し、それに太田氏が論評する形になっています。
 第一回目のサイトです。http://blog.ohtan.net/archives/52062681.html
 で、拝見したところ、非常に面白い太田氏の説がありました。
 2つ。まずこれを見てみます。
 1 「その2」から。http://blog.ohtan.net/archives/52063308.html
 日本軍の真珠湾攻撃は何だったか、です。
>→チャーチルは1940年5月日に(日本に対米攻撃をさせることによって)米国を欧州戦争に引きずり込む計画を思いつき(コラム#4214)、日本との外交交渉をあえて単細胞的(だとチャーチルが勝手に思い込んでいた)米国にぶんなげ、(結果的に)日本を追い詰めることに成功します。
 そして、翌1941年12月に「真珠湾攻撃<という日本の対米開戦という自分の工作成功>のニュースを聞いて<、チャーチルは>戦争の勝利を確信」するのです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
 ですから、例えば、1941年9月に米国が対日宥和に一瞬心を動かした時にも、彼は、米国を翻意させるために全力を挙げています。(コラム#3978)
 真珠湾攻撃をどうしても必要としたのは、チャーチルだったと太田氏が述べています。
 そして、当時ばかりか、1951年の時点でも、外務省官僚たちは、そのことを認識していない、と太田氏が指摘しています。
 2 統帥権干犯をどう見るか。「その3」から。http://blog.ohtan.net/archives/52063520.html
 太田氏の説が傑作です。
 「統帥権・・広義であれ狭義であれ・・を干犯するとかしないとかは、本来、帝国憲法(の解釈)とは何の関係もない事柄です。(戦前、慣例上、狭義の統帥権たる「軍事作戦の立案や指揮命令」権、すなわち軍令権を軍人に委ねていたことについては、一つの見識であり、いずれにせよ、時代の変遷とともに変わり得たことでした。)統帥権干犯問題とは、にもかかわらず、政党(政友会)が、軍政に係る事柄について、統帥権干犯なる言葉を用いて政争の具に供した・・・、という、ただそれだけの話である、というのが私の認識です。」(コラム#4141)
 日本を誤らせたのは統帥権干犯だ、とは、渡部昇一氏が『日本史から日本人 昭和篇』で特に強調して論じているところです。
 太田氏は、しかし、それは当時の政治家たちの駆け引きに使われただけのこと、と指摘しています。
 これは面白い見方です。
 で、肝心の、なぜ今も吉田茂体制が続くのか。
 このシリーズのなかに私が注目したのは、ここです、「その5」から。
 http://blog.ohtan.net/archives/52063929.html
>ここまで見てきただけでも、吉田茂を総帥として、外務省出身の当時の重鎮達が総出を挙げて構築したのが吉田ドクトリン/属国化戦略であった、と断定してよさそうです。
 吉田茂の対米従属政策の決定は、外務省の総出の合意である、と。
 ということは、戦後の対米従属は外務省の基本的政策である、ということになります。
 では、なぜそうなのか。


<植田信>(2011.3.3)http://8706.teacup.com/uedam/bbs?page=3&
 –外務省が、「対米従属は最善の国策」と考えた理由–
 ・・・戦後の日本は対米従属ですが、このことをメディア的に好まれる表現を使うと「ノ―と言えない日本」(石原慎太郎)とか、「拒否できない日本」(関岡英之)とかなります。
 太田述正氏は、もっと具体的に、「思いやり予算」がすでに日本属国である、と指摘しています。昨日紹介したブログでは、「保護国」です。
 そこで、戦後日本が対米従属であることに気がついた人たちは怒り心頭し、「日本よ、自立せよ」となるわけですが、私も、この点では同じです。
 理由が何であれ、外国に従属しているのは、健全な主権国家の姿ではありません。
 しかし、戦後の日本は、それでも対米従属しています。
 ノホホンと暮らしている分には、これでいいのですが、ー経済先進国になったことだし、徴兵はないし、等々ー、一度、戦後の日本が自立していないことに気がついた人には、これは大きな問題です。問題というより、ナゾです。
 なぜそうなのか?
 で、昨日は、太田氏の説を見ました。
 対米従属しているのは、日本外務省のせいである。外務省の外交政策として、戦後の日本は「対米従属」を選んだ、と。
 そこで、今度は、それはなにゆえか? です。
 なぜ外務官僚たちは、あえて対米従属を選んだのか?
 今度は、この疑問から『「吉田茂の自問」を読む』を見てみます。
 吉田茂首相はアメリカと講和条約を結ぶ準備として、敗戦(失敗)の理由を分析するように外務省職員に指示しました。1951年1月。その時点で「失敗の研究」をしたのは、まずは、首相としての責務として当然のことを吉田茂はしたわけです。
 ただし、首相は省庁横断の分析チームを編成させたのではなく、外務省職員だけのチームを編成させました。太田氏が「これでは最初から外務省寄りの結論が出てくるのは見え見えだ」、と批判していますが、誰が考えても、その通りでしょう。
 しかし、そのせいで、外務省が当時、「あの戦争」について何を、いかに考えていたのかが私たちにもわかります。他の省庁や、外部識者たちの意見が混じらない、外務省官僚たちだけの考えです。
 で、太田氏が解読する「失敗の研究」の物語は、3点の流れがあります。
 1 史実=ほとんど軍部がリード。本当は、「世論」に押されて軍部が動く。
 2 外務省の反応=軍部の独走の、外交的尻拭い。
 3 太田氏のコメント。
 今は、2のところに注目してみます。
 「その3」に、外務官僚の堀田正昭の証言があります。欧米局長、駐イタリア大使を歴任した人物です。http://blog.ohtan.net/archives/52063520.html
 掘田によれば、1930年のロンドン海軍軍縮条約への加入の時点が、軍部独走の原点です。
><ロンドン海軍軍縮条約への加入をめぐる1930年の>統帥権問題<が、>軍令部総長の加藤の帷幄上奏の問題に関連して<起こった>。・・・日本外交の過誤の背景をなす軍部の横暴の発端がここに開かれた。
 そして、海軍の青年将校たちが陸軍の青年将校と呼応するようになったこと。
>も一つの悪い結果は海軍の青年将校で陸軍の青年将校と一緒になって騒ぐ奴が出て来たことである。
 外交の過ち[り]を犯させるに至った根本の原因は軍部が外交に口を入れるようになったことである。これは絶対にさせてはならない>
 外務官僚の掘田には、「あの戦争」の原因を作ったのは、軍部の独走(暴走)でした。
 次です。
 有田八郎。アジア局長、外相2回。戦後、公職を追放されるも、衆議院議員に当選。
 この人が、戦前の外務省官僚は、いかなる統治観をもっていたのかを明確に示しています。
>当時外務省の者は、小村さん以来の伝統で、外交は外務省に任せておけという考え方で国民大衆の上に立ってやる点にかけていた。それには矢張り金が要る。・・余り金をとるのは嫌だという考え方では駄目だと思う。
 官僚は国民の上に立つ、と。
 見事なまでの不比等戦略です。
 大和(ヤマト)の国は、古代以来、官僚主導の国なのである。
 戦前の日本には1890年以来、議会制度はあれど、「国民主権」の思想はありませんでした。
 そして、国民の上に立って日本の外交を決定する有田は、戦後の日本はどうであればよい、とアメリカの担当者に語ったか。いや、アメリカの声が耳に入ったので、それに合わせて、いかなる自分の考えを述べたか。
 実に注目すべき発言があります。
>「自分は<1948年刊の自著>に書いてある新憲法第9条に賛成の意見は、今でもよいと考えている。結局米ソ戦というものは無いと考えている。・・・これに関連して自分は・・・<日本は>永世中立<国になるべきだと>思う。・・・米国は、着々軍備を整えつつあり、然も日本の戸口まで来ている。戸をたたけばすぐ入ってこれる状態にあるわけだ。・・・日本が中立宣言をするとすれば、アメリカはこれに保障を与えるかも知れないが、ソ連中共は、保障しないかも知れない。しかし、それでも構わないのである。ソ連が侵略して来たら、アメリカがやるということならそれでよい。こういう考えを自分が前に発表したのは、一昨年の暮頃、対日講話の問題について国務、国防両省間の意見の対立が伝えられた。国務省の方は、沖縄や小笠原だけ押えておれば、日本内地からは兵をひいてもよいというのに対して国防省が反対しているということだった。この間の調整を計る一案として考えて見たわけである。
 ペリー・グッド。
 まるでマッカーサーの発言のようではないですか。
 日本は永遠のスイスたれ。
 仮にソビエトが日本に攻めてきたら、それでもよいのである。アメリカに任せておけ。
 有田のこの発想は、戦後世代の私たちには、実に心地よく響きます。
 多分、私たちはこの発想を子守唄にしてきたのでした。
 そして、昨年、その結果の一つを見ました。
 中国が攻めてきたら、それでもよいのである、と。尖閣諸島事件です。仙谷・前官房長官は、きっと有田・子守唄を聞いて育った第一世代です。
 ついでに、ロシアが北方領土を我がもの顔で歩き回ってもよいのである、と。もちろん、菅直人氏もそう、前原外相もそうです。有田子守唄の世代です。
 そこで、私の疑問は、なぜ有田はそのような考えで良し、としたのか、です。
 推測すれば、軍部の独走(横暴)に対する反発です。
 戦後の日本に軍部が復活するくらいなら、アメリカに従属しているほうがいい、と。
 私は、ずっとこんな推測を持っていたのですが、有田の証言に裏付けを見た思いです。
 有田が次のように述べていました、
>自分は、再武装ということについては、軍国主義の再建を恐れる。日本の民主化などについてマッカーサー元帥のいっていることは賞めすぎで、日本の変化は、ほんの薄皮だけであると思う。又一旦ああいう憲法を造った以上、そう易々と変えるべきではない。
 有田は、軍国主義の再発を恐れたのでした。
 戦後世代は、全員、これに共感した、と。今も。
 はたしてそれは外務省のプロパガンダのせいなのか、普通の日本人自身の信念なのか?
 そしてそれに続く民主主義へのコメントですが、それ(戦前の軍部独走)を体験した有田は、多分、日本には民主主義はなかったと見なしたのでしょう。
 それに対する太田氏のコメントは、この有田の発言に対する解毒剤のような効果を発揮します。
>要するに、有田は、戦前、民主主義が大嫌いであり、世論を常に意識して動いたがゆえに外務省と衝突することが多かった軍部も大嫌いであったところ、戦後においてもその考えを貫いた、ということです。(太田)
 なるほど。
 太田氏は戦前の日本には立派に民主主義あったと主張する人物ですが、なぜそのような主張になるのか、その理由の一端がここに見える、という感じが私にはします。
 議会制度と、それが機能したことをもって戦前の日本を民主主義国家である、と規定すれば、私もその通りだと思いますが、戦前の民主主義と戦後の民主主義では、一つ、決定的に異なっている点があります。国民主権です。
 しかし、今は、ここが焦点ではなく、外務省はいかなる理由で「戦後の日本は対米従属で良し」、と考えたのか、です。
 
 ・・・
 だいぶ、戦後の日本がなぜ対米従属になっているのか、見えてきたではありませんか。
 日本外務省のせいである、と。
 そこで、この立場を明言している有田八郎・元外務官僚の発言の続きです。
 「その4」に出ています。http://blog.ohtan.net/archives/52063733.html
 有田八郎。
 こうも見事に戦後の日本のあり方(対米従属)を決定した人をみると、逆に、胸がスカっとします。ウィキペディアの紹介です。
 「有田 八郎(ありた はちろう、1884年(明治17年)9月21日 – 1965年(昭和40年)3月4日)は、新潟県佐渡郡真野町(現・佐渡市真野)出身の外交官、政治家。貴族院勅選議員、衆議院議員1期(第26回)。号は澤農。
 山本家に生まれ、有田家の養子となった。実兄の山本悌二郎は立憲政友会所属の政党政治家で、田中義一内閣及び犬養内閣で農林大臣を務めたことで知られている。
 戦前は「欧米協調派」に対する「アジア派」の外交官として知られ、近衛内閣時代に東亜新秩序の建設表明をした。日独伊三国同盟には最後まで反対したが戦後は公職追放。追放解除後は革新陣営に属し日本の再軍備に反対したことで有名である。」
 有田氏が1965年に死んだのは、ラッキーでした。湾岸戦争も、イラク戦争も体験せずに済みました。
 湾岸戦争当時、自民党幹事長だった小沢一郎氏が味わった屈辱(日本人はカネのためなら船を出すのか?)に直面することなく、小泉首相の悩み(自衛隊がいるところが、イラク国内の非武装地帯である)も体験することはありませんでした。冷戦の最中であり、日本は基地(土地/日本国の領土)を提供していれば、それで済みました。
 有田氏の発言です。
>再軍備の問題についても、新憲法の行き方が現実の事態に適用困難になったからといって、すぐこれを改正しようとするような考え方はとらない。出来るなら憲法を改正しないで、その許す範囲内で、例えば警察予備隊の増強等のやり方を研究して見てしかるべきではなかろうか。再軍備するとなると、最初は小規模のものでよいということであっても、5年、10年経つと、それでは足りないということにあり、大掛りのものに発展する可能性がある。
 戦後の日本はまさに有田の発言通りになっています。
>第三次世界大戦を回避するために民主陣営の武力を増強しなければならない、それには日本としても出来るだけ協力すべきである、ということも考えられるが、何も日本がいわゆる蟷螂の斧をたてなくても、アメリカは勝つと思うし、予備隊の増強程度で勘弁して貰えたら、それが一番いいと思う。
>日本の安全のためには、どうしてもアメリカの力によらねばならないという結論に達したならば、そのための日米間の協定は、期間を長くした方がよいと思う。アメリカの政権が変って政策にも変化が起り、日本から退いてしまうというようなことのないように縛っておいた方がよい。」
 戦後の日本の対米従属を決定したのは、この有田思想である、と言えます。
 その通りになっています。
 で、有田発言に対して、太田氏が次のようにコメントしています。
>→有田には、このような自発的属国戦略が中長期的に日本を腐らせてしまうであろうことなど全く予想外だったのでしょうね。
 もはや言葉を失います。(太田)
 その通りだとして、問題は、有田はなぜそのように考えるようになったのか、です。
 その考えが戦後世代の日本人をして、自虐に追い込むことになろうとは!?、と有田には予知能力がなかったとしても、私たちがここで考えるべきは、なぜ対米従属で良し、と有田が考えるにいたったか、です。
 有田の答えは、すでに見ました。
 いわく、〈自分は、再武装ということについては、軍国主義の再建を恐れる。〉
 つまり、戦後の日本に日本軍は存在してはならない、という思想です。
 その結果、アメリカ軍の駐留なら良い、となりました。
 そこで、私たちの疑問はこうなります。
 有田は、なぜそこまで日本軍の再建を恐れたのか?
 自国の軍隊よりも、アメリカ軍の方が信頼できると有田が考えたのはなぜか?
 私が思うには、戦後の日本人が対米従属から解放されるには、-というのは、この状態は、日本人が自ら招いていることがわかりました、外務官僚の思想ですー、なぜ外務官僚はそこまで日本軍の再建に反対するのかを解明するのがポイントです。
 その一端が、「その5」に登場する重光葵にあります。
 http://blog.ohtan.net/archives/52063929.html
 重光葵。皆さんもご存じの通り、日本国の全権大使としてミズーリ号上で降伏文書に調印した外務官僚です。なお、以上の外務官僚は、例外なく、東大法学部卒です。・・・
 重光が言います、
 >「自分が本当に腹を打ち明けることが出来たのは・・・木戸内大臣・・と陛下だけである。」(256頁)
 イエッサー。
 ・・・天皇と、天皇の忠臣しか、日本国内には信用できる人間はいない、と。
 まして軍人なんぞが、信じられるか。
 重光氏、まったく素晴らしい。
 ・・・天皇の忠臣は、天皇にだけ、顔を向けていればいいのである。国民のことなど、どうでもいい、と。・・・。
 太田氏がコメントします、
>→このように、天皇は別格として、外務省出身者と(陸海軍以外の)他省の出身者(木戸幸一は商工省出身)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
には、重光は甘いのです。(太田)
 いや、太田さん、「甘い」なんてコメントは、甘いですよ。
 戦後の日本国の国体に対する反逆者です。逆に、戦前にあっては、その態度は全日本人の鑑でした。
 さらに重光が言います、
>「一体軍人などというものは、外交を手品みたいに考えている。帽子の中から何でも出せるように何でも出来るものと考える。重慶と話をつけて、支那からアメリカを追い出し、支那と手を握って一緒にアメリカに立ち向うというようなことを真面目に考えているような按配だった。
 このほかにも重光の発言を紹介した後、太田氏がコメントします、
>重光の話し方は、いかに彼が陸軍を忌み嫌っていたかを示して余りあるものがあります。
 日本国の外交を荷う2つの中核の政府機関の一つが、このように他方を嫌いぬいているのでは、戦前の日本の外交がいかなるものだったか、そして、戦後の日本の外交がいかなるものか、私たちに想像するのをためらわせます。
 なぜ外務官僚は、そこまで日本軍人を嫌いぬいたのか?
 そして、それゆえに、戦後の日本は対米従属になったのでした。日本軍の再建など、我慢ならん!!と外務官僚が総力を挙げて主張したためです。これが、太田氏の用語では「吉田ドクトリン」であり、私の言葉では、戦後日本の「吉田茂体制」です。吉田茂体制とは、対米従属体制のことです。
 だから、戦後の日本国は、最も基本的な外交政策として「対米従属」政策があり、これを外務省が総力をあげて維持しています。
 この体制の中で、「ノ―と言えない日本」とか「拒否できない日本」の問題が出てきます。以上のように見てくれば、まあ、当たり前の結果です。
 で、日本が官僚主導国家であるとすれば、外務官僚が「対米従属で良し」と考えている限り、現在の日本国の対米従属は、永遠に続く、となります。
 さて、そこで、なぜ外務官僚はそこまで日本軍の再建を嫌うのか、です。
 そこにはいかなる背景があるのか。いや、過去にあったのか。
 戦後は、一応、日本軍は存在しませんから。あるのは自衛隊です。
 外務官僚が嫌うのは、自衛隊ではなく、戦前の日本軍であり、その日本軍の再現です。
 では、外務官僚と日本軍人の間に、何があったのか?
 最初から、ということは、明治の初期から、両者は反目していたのか?
 それとも、日本国の対外膨張のどこかの時点で、反目が始まったのか?
 ・・・
 ・・・なぜ外務官僚と軍人は反目したか、です。
 戦前の日本では両者が反目したので、マッカーサーが日本軍を廃棄したあと、外務官僚出身の吉田茂首相が正々堂々と戦後の日本国の政体を決定することが出来ました。
 太田述正氏が言います、
>ここまで見てきただけでも、吉田茂を総帥として、外務省出身の当時の重鎮達が総出を挙げて構築したのが吉田ドクトリン/属国化戦略であった、と断定してよさそうです。(太田)
 http://blog.ohtan.net/archives/52063929.html
・・・
・・・太田述正氏は、どうして病気にならないのだろう・・・。
 ・・・最初から従属精神しか持たない人たちに付き合って、どうして病気にならずにいられるか?
 パンシロンでも飲んでいるのか、なんて、ジョーダン。しかし、古いなあ。胸やけにはパンシロン、なんて。
 免疫ができているのか。
 それとも、外務省はバカだと罵って、ストレスの発散か。つまり、その言葉は本気ではなく、医療薬、と。・・・
・・・<話は変わりますが、思いやり予算についての私>の結論は、太田述正しと同じです。「思いやり予算」など、不要、と。以前から主張されています。
 真夏に、アメリカ人家族は、一日中、エアコンをつけっぱなしでも平気。電気代を負担するのは、日本人だから。
 というのは、だいぶ前から知られています。金丸信の「アメリカ人への思いやり」です。というか、米軍基地で働く日本人労働者への賃金の負担でもありました。
 これらの問題の解決は、基本的なところで、吉田茂体制を見直すしかない、と私は思っています。
 しかし、戦後の日本人はそれで良し、としてきたわけです。
 なぜか。
 ここが私には大問題でした。
 それゆえに、日本外務省が戦前の軍部の再現を恐れるあまりに、米軍駐留の日本永久占領を是認した、と。日本側の要因なのである、ということになりました。
 現状を変えられる要因は、足元にあり、です。ワシントンではなく。・・・
<植田信>(2011.3.4)http://8706.teacup.com/uedam/bbs?page=2&
・・・太田述正氏は、防衛庁で日米・安全保障問題を直接体験された人だけに、この問題では先駆的にいろいろと分析をされています。
 吉田ドクトリンの解決なしに、その他もろもろの解決はなし、と。・・・
 ・・・
・・・吉田茂が日本の再軍備拒否をダレスに告げました。ここの理由を、太田説にしたがって、吉田茂をはじめとする外務省の総力をあげての戦前の日本軍への嫌悪である、と私たちは考えることが出来ます。そして、もちろん、マッカーサーが強要した憲法9条を盾にとっての、アメリカへの抵抗です。・・・
 芳沢謙吉。アジア局長、フランス大使、外務大臣。
 いわくー>「外務省に入って、半世紀の間というもの、結局軍部のしくじりの尻拭いをやったことが一番多い。・・・一体歴史を見ても判る通り、・・・日本国民は好戦国民であった。」
 戦後の時代、外務官僚は戦前のみじめさのうっ憤を晴らしているのだ、と私たちは考えてあげることにしましょう。
 しかし、もういいだろう、と。
 旧日本軍の下請けをやらされた世代はもうとうに現役を引退していることだし、今は、佐藤優氏や外木氏の世代になっています。その意見は別にして、今の日本は戦後世代が前面に出てきた時代に入っています。
・・・
<植田信>(2011.3.5)http://8706.teacup.com/uedam/bbs
 ・・・安全保障の面では、太田述正氏の説では、日本政府が「日本国は集団安全保障の行使ができる」と発表するだけで、自立を回復できる、ということです。
 いとも簡単ではないですか。
 で、なぜこんな簡単なことも日本政府は発表できないのか。
 といえば、日本軍の再現を恐れる日本外務官僚の恐怖症がある、と。
 では、この外務省官僚の恐怖症を取り除いてやるにはどうしたらいいか、です。
 ・・・
 外務省官僚の軍部恐怖症とは、要は、どちらが天皇に近いかの競争です。
 天皇に近いものほど、日本・・・の社会では、他の日本人の上に立つ、と。こうして、戦前の軍部は外務省の上に立った、と(軍部の統帥権)。だから、外務官僚は、外交がしたくても(自分たちの職務を遂行したくても)、できなかった、と。
 ここのところの証言があります、太田氏の『「吉田茂の自問」を読む』の「その6」です。
 http://blog.ohtan.net/archives/52064141.html
・・・
 終戦になり、占領が始まると、動機は変わります。
 ここは、太田述正氏の説である「横井小楠コンセンサス」が妥当するでしょう。すなわち、ロシア恐怖です。
 太田氏の説を再掲してみます、今月1日の掲示板から、
>そもそも、江戸時代において、脅威と認識されたのは日本のすぐそばにまで、地続きで膨張してきたロシアでした。
 幕末、横井小楠(1809~69年)が、「国是三論」(1860年)において、「米国については、「メリケンにおいては・・米英を親近感をもって褒め称える一方、清に対しては直裁的に、そしてロシアに対しては暗黙裏にその反自由・民主主義性に嫌悪感を示した・・。
 ロシアの膨張に19世紀から日本人は脅威を覚えていました。
 そこに1922年、ソビエトが主宰するコミンテルンで、日本の君主制廃止が提案されました。
 日本の君主制廃止とは、すなわち、天皇制の廃止です。
 1945年の時点でスターリンは健在です。
 昭和天皇は、いかにソビエトを恐れたことか。
 日本は、憲法9条国になりました。
 昭和天皇を恐れさせ、アメリカに安全保障を頼った占領中の天皇の行動こそ、太田氏の「横井小楠コンセンサス」を立証するもの、と言えるかもしれません。
 この天皇の恐怖が、戦後の対米従属の「国体」をつくった、ということになります。
 おまけに吉田茂首相と外務省が日本軍の再建を嫌います。
 これでは戦後の日本人が対米従属にならないほうがおかしい、と言わざるを得ません。
 以上で、戦後日本の対米従属の第一原因が特定できました。
 豊下樽彦氏の「昭和天皇がつくった戦後の国体」と、
 太田述正氏の「横井小楠コンセンサス」と、
 私<の理論>の合作です。
 「吉田茂・安保体制」です。
<太田>
 そりゃ無理な話だよ、植田さん。
 私の議論をつまみ食いするってのは不可能なんだぜ。
 自分が重篤の病に罹っていることにうすうす気づき始めているようだが、あなたが快癒するためには、まずもって、自分の理論という穢れをきれいさっぱり洗い流す決意をしなくっちゃ。 
 植田さん、国民主権ではない英国は、自由民主主義国なの? 戦前の英国は?・・という私の問いかけに対して、いつまで逃げ回ってるつもりなのさ。
<SA>
 ご返事が来る<(コラム#4589)>とは思っていませんでした。僕は2年前に○○系の職場を退職しまして、息子がパソコンを買ってくれまして、ボランティアに使用していました。
 先日、母親のセリフを思い出して、君の名前を検索してみましたら、四日市、エジプト、ピアノなどが決め手でした。
 保育園時代に南に立派な庭があり、ピアノのあるお宅にお邪魔したことがあり、エジプトにいくまえに僕の住宅にタクシーで、お別れに来たことは強烈に覚えています。
 僕たちの育った頃の四日市はきれいな伊勢湾、三滝川,海蔵川そして松並木、今はコンビナートに変わり、訪れることはなくなりました。
現在、愛知県 XXXXXXXX<に>住んでいます。
・・・
・・・妻と二人で住んでいます。娘は横浜、息子は市内で、独立。
<太田>
 それでは、記事の紹介です。
 まず、リビア革命関連から。
 <トリポリの西のザウィヤでは、反体制派がまだ持ちこたえている。↓>
 Rebels said government forces had moved in to Zawiya, west of the capital, with tanks and dozens of people had been injured, but they vowed to keep up the fight.・・・
 <カダフィの古里のシルテの東90マイルのラス・ラヌーフが反体制派の手に落ちた。↓>
 Ras Lanouf, about 90 miles (140 kilometers) east of Sirte, fell to rebel hands on Friday night after a fierce battle with pro-regime forces who later fled. ・・・
 ・・・the battle was won after Ras Lanouf residents joined the rebels. ・・・
 ”They just follow orders. After a little bit of fighting, they run away,”・・・
 <その附近で、体制派の戦闘機が墜落した。↓>
 Also Saturday, a Libyan jet fighter has crashed near Ras Lanouf・・・
 Farther east, a large arms and ammunition depot outside Benghazi, Libya’s second-largest city, blew up Friday in a massive explosion that completely destroyed an area three times the size of a soccer field. ・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2011/03/05/AR2011030500650_pf.html
 <シルテには外務省以外の全官庁を移す計画があり、公共施設が整備されている。>
 ・・・Today Sert, which has 135,000 residents in the city and surroundings, has changed dramatically because of government largesse. The town now has reasonably good infrastructure (unlike most other Libyan cities) and sports a university and large hospital, along with numerous government buildings. In fact, all central government ministries — except for foreign affairs — had been ordered to relocate to Sert in order to create a new administrative capital roughly in the middle of the country, between the east, dominated by Benghazi, and the west, dominated by Tripoli. However, bureaucrats with comfortable homes in Tripoli, a city of more than 2 million, managed to defer transfers, and today most ministries have set up only satellite offices in Sert, with the real business of government still taking place in Tripoli.
 <そこには、国際会議場もある。↓>
 Gaddafi was more effective setting up Sert as an international showcase, building a huge conference center, the Palais des Congres, the largest such hall in North Africa, and other facilities to host African summits, U.N. meetings and, more recently, the Darfur peace talks. “This is really the political capital of the regime,”・・・
 <また、チャド出身の傭兵達のOBが何千人も住んでいる。↓>
 Another international touch in Sert: it is thought to have become home to possibly thousands of retired mercenaries from Chad, part of the Islamic Arab Legion Gaddafi funded in the 1980s・・・.・・・
 The real defense of the city, however, would come from the families of two key tribes — Gaddafi’s Qadhadfa and the Magariha — many of whose members have been absorbed into Gaddafi’s sprawling domestic and military-intelligence services or into key security units. ・・・
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,2057204,00.html
 <戦況が一目で分かるのが、以下の地図だ。↓>
http://www.nytimes.com/interactive/2011/02/25/world/middleeast/map-of-how-the-protests-unfolded-in-libya.html?ref=africa
 アラブ革命に最もうちひしがれているのがイランの人々ではないか。中東世界で決定的に取り残されてしまったと思っているはずだ。↓
 ・・・the Arab risings have revealed that Iran’s revolutionary ideology has not only been rendered bankrupt at home, but it has also lost the war of ideas among its neighbors. ・・・
http://www.nytimes.com/2011/03/06/opinion/06sadjapour.html?hp=&pagewanted=print
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太田述正コラム#4600(2011.3.6)
<戦前の日本の外相(その6)>
→非公開