太田述正コラム#4426(2010.12.9)
<セオドア・ローズベルトの押しかけ使節(その6)>(2011.3.15公開)
 「1844年、米国はジェームス・ポーク(James Polk<。1795~1849年。大統領:1845~49年
http://en.wikipedia.org/wiki/James_K._Polk (太田)
>)<(コラム#1759)>を大統領に選出した。・・・
 <その頃、>メリーランド州選出の下院議員のウィリアム・フェル・ガイルス(William Fell Giles<。1807~79年。後最高裁判事
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Fell_Giles (太田)
>)は、アーリア人としての意図を表明した。
 「我々は、大洋から大洋へと行進しなければならない…真っ直ぐに太平洋へ、そして、その逆巻く波によってのみ劃されるべきだ…それは白人種の天命(destiny)なのであり、アングロサクソン人種の天命なのだ」と。」(62~63)
→人種主義的帝国主義米国は、北米において侵略戦争に乗り出して行くわけです。(太田)
 「<ポーク大統領は米墨戦争を始める。>
 <米軍部隊>の侵攻は暴虐的なものであり、メキシコの一般住民と地方の女性の強姦を伴った。(ニューヨーク・ヘラルド紙は、米軍の兵士によって攻撃されたメキシコ人女性について、「サビーニ(Sabine)の処女達<(注4)>のように、彼女達もすぐに蹂躙者達を愛することを学ぶことだろうて」と記した。)・・・
 (注4)古代ローマの最初の世代は、ローマの近傍のサビーニの女性達を掠ってきて妻にしたという伝説がある。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Rape_of_the_Sabine_Women (太田)
 この戦争に若き士官として参加したユリシーズ・S・グラント(Ulysses S. Grant<。1822~85年。大統領:1869~77年
http://en.wikipedia.org/wiki/Ulysses_S._Grant (太田)
>)<(コラム#618、622、624、1839、2882、3365)>は、回顧録の中で、この戦争は、「強国が弱い国に対してしかけた中で最も不正義なものの1つ」と見た、と記した<(コラム#622)>。
 やがて米国は勝利するわけだが、米国はメキシコ全土を獲得することもできた。
 しかし、それは余りに多数の非アーリア人を吸収することを意味した。
 そのように、南カロライナ州選出の強力な上院議員のジョン・カルフーン(John Calhoun<。1782~1850年。米副大統領を勤める。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_C._Calhoun (太田)
>)は主張した。
 すなわち、「コーカソイド(Caucasian race)以外の誰かを我々の合衆国(Union)に編入することなど、我々は夢にも考えたことはない。お歴々よ、我々の<米国>は白人種の政府なのだ」と。
 それに、更に、ミシガン州選出のルイス・キャス(Lewis Cass<。1782~1866年、1848年の大統領選における民主党候補
http://en.wikipedia.org/wiki/Lewis_Cass (太田)
>)上院議員は、「我々は、メキシコの人々を、市民としても臣民としても欲しくはない。我々が欲しいのは、領土の一欠片だけだ」と付け加えた。」(63~64)
→人種主義的帝国主義米国による外国の侵略は、その国の原住民全員を放逐したり隔離したりすることが困難な場合には、侵略先の領土のうち、原住民の数が比較的少ない一部地域(「アーリア人たる」白人の住民がいる地域の場合が多い)だけを奪取し、その地域に住む原住民を放逐したり隔離したりした上で米国の「アーリア人たる」白人をその地域に移住させる、という方法を基本的にとることになるわけですが、その最初の試金石がこの米国によるメキシコ侵略・・米墨戦争・・であった、ということです。
 セオドア・ローズベルトが関わったのは、1900年のハワイ併合と1898年の米西戦争ですが、ハワイ併合の際には、原住民が比較的少なかった上、「アーリア人たる」白人の住民がいたので、領土全体を奪取し
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
、米西戦争の際においては、プエルトリコについては、(「アーリア人たる」白人の住民はいませんでしたが、)原住民人口が比較的少なかったことから、ハワイ同様、領土全体を奪取する
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B3
一方、(「アーリア人たる」白人がほとんどおらず)原住民人口が比較的多いキューバについては一部地域(グアンタナモ)だけを奪取することになります。
http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Cuba
 しかし、フィリピンについては、本来キューバの例に倣うべきところ、その領土全体を奪取してしまい、米国はその後の処置に困る羽目に陥るのです。(太田)
 「<スー族との>ウーンデッド・ニー(Wounded Knee)の(白人の勝者達の言うところの)「戦い」、或いは(赤人<(=インディアン)>たる敗者達の言うところの)「虐殺」<(コラム#4072)>は、米国史上最も長い紛争であったところの、4分の1世紀に及ぶ容赦ないインディアンとの戦争の最後の大いなるドラマだった。」(66)
 「この1866年から84年にかけてのインディアンとの戦争で司令官を勤めたウィリアム・テクムシー・シャーマン(William Tecumseh Sherman<。1820~91年。南北戦争の時の活躍が有名。米陸軍司令官:1869~83年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Tecumseh_Sherman (太田)
>)将軍は、彼の配下部隊に次のように命じた。
 「攻撃の最中には、兵士達は、男と女、或いは年齢の違いを判別するために立ち止まってはならない」と。
 実際、彼らは立ち止まらなかったのであり、この数十年間にわたって、インディアンの死者には、数えられることもなかったところの、数千人の母親達、子供達、そして高齢者達が含まれており、その中には、単に面白半分に殺され、その陰部が抉られて愛蔵の財布や帽子飾りにされたり、彼らの頭皮と彼らの性器が戦利品として展示されたりした者があった。」(67)
→この時点から半世紀以上経っていた日米戦争の際に、日本兵の死者に対して米兵達は同じ冒涜行為をやってのけました(コラム#4357)。
 米国の白人大衆の意識は、この間、全く進歩していなかったということです。
 このことは、白人たる米国の指導者達についても当然あてはまるはずです。(太田)
(続く)