太田述正コラム#4492(2011.1.11)
<日露戦争以後の日本外交(その5)>(2011.4.7公開)
 「「日米関係」について・・・、<西園寺内閣の外相>林<董(はやしただす。1850~1913年。外相:1906~08年。旧幕臣
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3 (太田)
>)は、その『回顧録』の中で次の様に論じている。・・・「日米間の三つの問題は、<日本人>移民<排斥(注6)>、学校<(=学童排斥)(注5)>、清国<の門戸開放、領土保全>問題である。・・・<しかし、>日米間には戦争を正当化出来るような利害または感情の対立はない。」(321)
 (注5)「1906年のサンフランシスコ市の日本人学童隔離問題。「同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E6%97%A5%E7%A7%BB%E6%B0%91%E6%B3%95
 (注6)「1908年、林董外務大臣とオブライエン駐日大使との間で一連の「日米紳士協定」が締結され、米国への移民は日本政府によって自主的制限がされることとなった。この協定により旅券発行が停止されたのは主として労働にのみ従事する渡航者であり、引き続き渡航が可能だったのは一般観光客、学生および米国既在留者の家族であった。・・・ 
 写真結婚による渡米<も>日本政府により1920年禁止される。・・・
 <ところが、>1924年に・・・いわゆる排日移民法が米・・・議会で・・・成立<してしまう>。・・・
 排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む遠因となった・・・」(ウィキペディア上掲)
 「<これに対し、>青木周三駐米大使が、<1907>年10月28日に、林外相に宛てて「この<米>国のみならず・・・ヨーロッパに於いても、両国が不可避の闘争に急速に押し流されているという一般的な考えが広がり始めている。この状態に於いて、私は強力な<米国に於ける>民衆感情の傾向に対抗するために何らかの措置が遅滞なく執られるべきである・・・」<として、>・・・日米両国の領土保全、太平洋上の優越を内容とする・・・日米協商<の締結を提案した。>・・・
 <林外相は>この青木駐米大使<を>更迭<した。>」(322~324)
 「伊藤<博文>は、・・・日米関係が日増しに深刻化し、今日のまま放置出来ないという国際認識<を抱いており、>林とはかなり隔たりがあった・・・。」(325)
→これが、駐米大使館が日本に係る米国情勢を率直に本国に上申しなくなる、ひいては真面目に仕事をしなくなる一契機になったのではないでしょうか。(太田)
 「林は、日本政府首脳が常に主張して来た「日本が清国に代わってロシアを満州から駆逐→莫大な犠牲の認識を要求→それに対する報酬としての満州に於ける諸権益の譲渡」という論法に対して、日本がロシアと戦ったのは日本自身の利益のためであり、日本の自己保存のためであ<って、>・・・満州から利権を得ると同時に清国人の好意を得ようとする<のは>・・・自己矛盾であるとする。・・・
 <また、>林は、日露戦後の南満州に於いて戦勝の余威を借りて行われた日本軍政が清国人はもとより欧米人の反感を買い日本外交を困難にしたこと・・・<かつ>山縣、桂などの陸軍系の政治家や後藤満鉄総裁等による南満州利権獲得に対する強硬な要求・・・<など>を指摘していた・・・。」(333)
→まるで評論家のような林の言はともかくとして、陸軍が配備されていたところの、満州や(狭義の)支那において、(超然的な)外務省と(世論に近い)陸軍との間で対立の構図が生まれるのは、いずれにせよ、早晩避けられなかったでしょうから、内閣機能を強化して、安全保障政策の総合調整が行えるような仕組みを、早急に整えるべきだったのです。
 (当然、陸海軍の総合調整の実施を含む。)
 それを怠り、しかも、満鉄などという、時代遅れの東インド会社のようなものを設けたこと・・しかも東インド会社と違って、政治、軍事を含む一元的権限を与えたわけでもない・・が、一層政府内の調整を困難にした、というわけです、(太田)
 「<前出の1907年4月4日に策定された>「国防方針」は、仮想敵国については「露国を第一とし米、独、仏の諸国之に次ぐ」・・・とした。兵備については、「陸軍の兵備は想定敵国中我陸軍の作戦上最も重視すべき露国の極東に使用し得る兵力に対し攻勢を取るを度とす、海軍の兵備は想定敵国中我海軍の作戦上最も重要視すべき米国の海軍に対し東洋に於て攻勢を取るを度とす」とし<た。>
 ・・・海軍としては、・・・ロシアに関してその海軍が壊滅状態であること<からロシアを重要視するわけにいかず>、・・・<さりとて、>海軍の予算獲得上の必要<も>あった<というわけだ>。」(364~365)
→陸軍ももっと米国を重要視すべきであった一方、海軍も、もっと真面目に日本に係る米国情勢をフォローすべきでした。ただし、最も咎められるべきは、警鐘をきちんと鳴らし続けなかった外務省です。(太田)
 「独帝は、<1908年>7月19日に・・・『ニューヨークタイムズ』の・・・通信員と・・・会見して、日本の台頭と清国支配に対する危険性を指摘し、またイギリスの日英同盟による白人主義への背信行為を難詰した後、素質、宗教、民族を同じくする独米間の協調の必要性を力説し、「もし清国が指導国(Big Brother)を必要とするのであれば、清国の領土保全、門戸開放を保証し、誠実なる指導と友情を確保するためにアメリカがドイツと協定を締結することは容易である」・・・と語<った。>」(439)
→1940年にパール・バックが吐いた見解(コラム#4462)と生き写しですね。
 いくら愚かであったとはいえ、ヴィルヘルム2世は、米国のエリートも大衆も、ホンネでは同じ考えだろうと思っていたからこそ、このように語ったのでしょうし、まさにその通りであったわけです。(太田)
 「<1908>年3月に、米国艦隊の世界周航が公式に発表された。・・・
 ルーズベルトは、一方に於いて日本がアメリカ国民の一部の排日運動をアメリカとの戦争の理由としないように強く要望するが、他方に於いては如何なる場合にも日本を恐れていないことを日本に印象付ける事が日米戦争を回避する上で必要であると信じるに至った・・・。
 その一つの手段として、ルーズベルトは、米国艦隊の世界周航という示威的措置を考えたのである・・・。」(442~443)
 「米国艦隊は10月18日に横浜に寄港し、日本の朝野の大歓迎を受けた。・・・
 <そして、>11月30日に「日米協商に関する交換公文」いわゆる<高平小五郎駐米大使とエリフ・ルート国務長官との間で>高平・ルート協定<(コラム#4464)>が調印されたのである。」(448)
 「この高平・ルート協定について、解釈が二通りに分かれた。一つは、ルーズベルトが日本にフィリピンに対して侵略の意図がないことを認めさせた上で、さらに清国の門戸開放及び領土保全を支持することを新たに約束させたこと。もう一つは、日本がフィリピンの安全を保証することを誓約する代わりに、アメリカが日本に対して満州のフリーハンドを与えたということ、である。・・・この協定を厳格かつ法理論的に解釈すると前者であり、一方この協定が成立するに至った諸事情の経過及びその後の歴史を見れば後者である・・・。」(451)
→高平・ルート協定は行政協定(administrative agreement)であって、条約ではないことに注意。米国においては、条約は法律と同一の効力を持つけれど、行政協定はそうではないので、裁判所とか国民を直接に拘束することはありません。また、一般に、それを結んだ時の政府だけを拘束すると考えられています。(ただし、下掲の典拠は拘束するとしている。)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/013/0082/01303130082012a.html (太田)
 「ルーズベルトは、・・・ルーズベルトに代ったタフト大統領・・・<に対し、>・・・<1910>年12月22日に・・・次の様に書い・・・た。「我国の死活的利益は、日本人を我国から閉め出すことであり、同時に日本の好意を維持することである。他方、日本の死活的利益は満州と韓国にある。・・・満州に関しては、もし日本人が我国と対立する行動を選ぶとしても、我々は日本と戦争を行う用意がなければそれを止めさせることは出来ない。満州に関する戦争で勝利を収めようとすれば、イギリスと同程度の海軍に加えてドイツと同程度の陸軍が必要となるであろう。…しかるにその一方で、我国の満州に於ける権益は実に取るに足らないものであり、わがアメリカ国民はそのため僅かでも日本と衝突する危険を冒すことについては少しも望んでおらず、むしろ日本人を我国から閉め出すことの方がよほど重要である。」(452)
→ローズベルトの人種主義者としてのホンネが、念の入ったことに、二度も吐露されていますね。(太田)
(続く)